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2020年7月 4日 (土)

藤原雅教と顕長1

 『平安遺文』第六巻に確認したい文書があったのでPDF版で最初の頁を見ると、二四四七号として永治元年八月四日国司庁宣が掲載されていた。続く二四四八号は崇德天皇綸旨案(正しくは写)とある。そこには藤原雅教が進めた免除庁宣を遣わしたことが醍醐寺の大僧正御房に伝えられていた。同日付で「永治元年」の付年号が付されていた。写なので発給者が付けたのか、醍醐寺側が付けたのかは不明である。綸旨の奏者は右近権中将教長である。藤原忠教(中宮[聖子]大夫)の子で、保元の乱では公卿で崇德院のもとに参上した数少ない人物で、その背景には崇德院の子重仁親王の母である兵衛佐局を養女としていた。乱により解官・配流されるが、後に帰京を許され、復任はしなかったが、文化人として活動し、蔵人頭藤原光能に崇德院除霊の施設の設置を働きかけた。
 両方とも出典は醍醐雑事記十三とあり、雅教が進めた庁宣が二四四七号であろうと思ったら、遺文では文書名は「越前国司庁宣案」であった。そこで確認すると、雅教はその当時、越前ではなく加賀国守であった。税が免除された醍醐寺領得蔵庄を確認すると、やはり加賀国の庄園であった。同時期の越前守は藤原家保の嫡子顕保である。その同母(崇德乳母宗子)弟が鳥羽院の寵臣家成であるが、保延元年五月に家保が顕保に修理大夫を譲ろうとしたことに反対し、これを阻止したことが知られている。雅教の経歴を確認すると、保延二年四月七日に民部〔権〕少輔に補任され、翌三年一二月一九日には遠江守から加賀守に遷任しており、庁宣の署判者「民部権少輔兼守藤原朝臣〈在判、雅教〉」と一致している。
 雅教は藤原家政の子であるが、三才の時に正三位参議である父が三六才で死亡したため、母の実家藤原顕隆のもとで育ったと思われる。「藤原顕隆とその子達」で述べたように、雅教(1113年生)の母は顕隆の嫡子顕頼の同母姉妹であろう。雅教は一一才で白河院分国越後の国守に補任され、院の没後は一七才で遠江守に遷任し、次いで二五才で加賀守に遷任している。雅教の一才下で顕頼の養子となっていた顕広が一四才で国守となった美作から三二才で国守となった三河までは、五味文彦氏がいずれも顕頼の知行国であるとしている。雅教の遠江守と加賀国もまた顕頼の知行国であろう。雅教は天養二年四月一五日には駿河守に遷任しているが、在任中に顕頼が死亡してもその地位は継続しており、駿河守は独立して補任されたものであろう。
  顕頼の二四才年下の異母弟顕長は右兵衛佐から兵部大輔に進む一方で、紀伊守、越中守、三河守、遠江守、三河守を歴任し、次いで久寿二年一二月には嫡子長方を丹波守にするため三河守を辞している。翌保元元年一〇月には兵部大輔とともに中宮(忻子)亮を兼ねている。同時に前待賢門院長承三年御給で従四位下に叙せられている。忻子が待賢門院の甥德大寺公能の娘であることを含めて、待賢門院流に属するといってよい。五味氏のリストから漏れていたが、父顕隆の死亡後、顕長が国守であった越後国は兄顕頼の知行国となったと述べた。三河守(一回目)補任時(保延三年一二月)も二〇才であり、顕頼の知行国であった。五味氏はその次の遠江守のみ検討し、当時独立した力を保持しており、顕頼の知行国とはみなせないとしたが、それ以前は父顕隆と兄顕頼の知行国の国守であった。氏は九条民部卿が遠江国を知行していた時に河村庄が京都松尾社に寄せられたとの記事を検討して、寄進の時期は顕頼の養子顕広が国守であった保延三年一二月末から久安元年一二月末までとしたが、顕広の前任雅教が補任された大治四年一二月二五日以降、遠江国は顕頼の知行国であった。

 

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