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2020年7月15日 (水)

嘉禎四年、宝治元年の守護2

 一四番佐々木壱岐前司(泰綱)は嘉禎の近江入道(信綱、仁治三年没)の後継者で近江守護。一五番はすでに述べた。一六番名越尾張前司(時章)は嘉禎に欠落していた式部大夫殿(光時)の弟で筑後・肥後・越後・越中・大隅守護。木下氏は「名越朝時の守護国が従来の想定より少ない」としたが、どういう意味であろうか。嘉禎の朝時守護国は越後・越中・能登・大隅の4ヵ国であるが、筑後・肥後は嫡男光時が守護であった。光時失脚後はどうかというと、能登こそ他の一門に交代しているが、越中・越後・大隅と筑後・肥後は名越氏がその後も守護であった。佐渡については、佐藤氏が貞応二年に朝時が北陸道の守護であったとの所伝に佐渡が含まれるかは疑問であるとしたが、伊藤氏が含まれるとしていた。実際は前述のように嘉禎、宝治とも後藤基綱が守護であった。ただし、北条氏一門の中で名越氏のみ大番頭を務めてさせられている点は注目される。
 一七番秋田城介(義景)は嘉禎の城介と同一で上野守護。一八番大友豊前前司(親秀)跡は嘉禎の豊後大炊助入道の後継者で豊後守護。一九番の足立左馬頭入道は足利の誤りで、嘉禎の足利左馬頭殿(義氏)ど同一で美作守護。二〇番天野和泉前司(政景)は嘉禎の和泉前司の後継者で長門守護。二一番信濃民部大夫入道(行盛)は行義の従兄弟で父行光を継承して政所執事となった。行義同様、宝治合戦の没落者の守護国を与えられたと思われるが、具体名は不明。二二番宇都宮下野前司(泰綱)は嘉禎の宇都宮下野守と同一で伊予守護。二三番甲斐前司(泰秀)は嘉禎の長井左衛門大夫で備後・出羽守護。建長五年一二月に泰秀が四三歳で死亡すると備後守護は泰秀の弟泰重が継承。泰重は建長四年までには藤原親実の後任として周防守護となり、文永元年四月には備後とともに備前守護を兼ねていた。宝治元年新日吉社小五月会の流鏑馬七番を長井左衛門大夫泰重が務めており、当時の六波羅では北方探題駿河守重時に次ぐNo2の地位にあった。後鳥羽院の子雅成親王(建長七年二月没)が配流された但馬国朝倉庄地頭として、その管理にもあたっている。備前に配流された頼仁親王が没したのは文永元年五月であるが、備前守護に比定した葛西伯耆前司清親は、文永七年一二月没とされるが、『吾妻鏡』では宝治元年末の大番役頭が終見史料である。宝治二年以降の早い時期に泰重に交代した可能性が高い。
 以上、検討したが、大番頭としてみえるのはその時点の守護であるとの仮説は正しいと思われる。次々と守護が交代する国と、一族間で継承される国にはっきり分かれている。

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