koewokiku(HPへ)

« 藤原雅教と顕長2 | トップページ | 源義親の乱と大社造営 »

2020年7月 6日 (月)

藤原顕輔について

 これまで藤原重家の父として何度が言及してきたが、一部はWikipediaに依存した部分もあり、きちんと史料で確認する。
 顕輔は白河院近臣顕季の子で、長実、家保、顕輔は同母(藤原経平の二女)兄弟である。経平の娘睦子は閑院流藤原実季との間に公実(璋子の父)や苡子(鳥羽の母)を産んでおり、永久五年(一一一七)一一月に璋子が鳥羽天皇に入内して女御となると、三兄弟すべてがその別当に起用され、翌年に中宮となると顕輔の子顕時が中宮少進に補任されている。ただし、一五才年上の長実と一〇才年上の家保ほどには注目されていない。
 その経歴をみると、康和二年(一一〇〇)正月に一一才で白河院判官代に補任され、同月中に蔵人になるとともに叙爵している。従五位上、正五位下に叙された後の康和六年正月に一五才で後白河院分国越後の国守に補任されている。天仁二年(一一〇九)一〇月には院近臣藤原敦兼と相博して加賀守となっている。二〇才であり、父顕季が知行国主であった可能性が高い。保安三年正月に鳥羽天皇への昇殿を認められたが、その直後に崇德天皇が即位すると鳥羽院庁別当となり、七月には崇德への昇殿を認められた。九月に父顕季の死により喪に服したが、間もなく復任した。
 問題なのが大治二年一月に「得替し昇殿を止められた」ことだが、何を得替したかは明記されていない。確認すると、元永元年(一一一八)一二月末に德大寺実能と相博して美作守に遷任している。二九才であり独立した国守であろうが、相博した相手の実能は兄西園寺通季が知行国主であった。顕輔は保安三年(一一二二)末に重任し、大治元年末に美作守は藤原顕広に交替している。養父顕頼が知行国主であった。大治二年(一一二七)正月に白河院の勘気を蒙り昇殿を止められたことは和歌のサイト「やまとうた」の顕輔の項にも記述があるが、『中右記』の当該月の記事には関係する記述はなかった。
 顕輔の子には一五才時に生まれた清輔がいたが、関係は微妙であったとされ、三八才時の子重家が出世していく。その間にいた前出の顕時のその後は不明である。ともあれ、顕輔は前美作守となり、冷遇されたことは確実である。大治四年七月に白河院が死亡し、翌年二月に忠通の娘聖子が崇德天皇の中宮に立后されると、中宮亮に補任され、八月には崇德天皇への昇殿を許されたとするのは『公卿補任』の記述であるが、それ以前に大治四年一一月三日鳥羽院庁下文の署判者としてみえる。前美作守であるが、受領最上位の伊予守藤原基隆の次に署判している。但馬守藤原敦兼や讃岐守藤原清隆より上位にあり、同年四月に参議となった長実の後だが、内蔵頭兼播磨守藤原家保よりは上位である。大治六年二月に近江守に補任されたが、保延元年末に辞して八才の子重家を周防守にした。保延二年二月一一日鳥羽院庁牒でも、「中宮亮」として署判し、家保とその子家成の後であるが、敦兼、清隆並びに大膳大夫兼伊予守藤原忠隆(基隆嫡子)、中務大輔兼美作守平忠盛よりは上位にある。鳥羽院政の開始とともに政界に復帰したとすべきであろう。崇德天皇との関係は良好で、保延三年(一一三七)一〇月には従三位(非参議)に叙され公卿となっている。
 保延四年には中宮御塔壇築造を行事として行い、子である周防守重家の重任功として認められている(興福寺別当次第巻之二)。歌人として知られ、『久安百首』など崇德天皇の歌会に参加し、譲位後の天養元年(一一四四)には勅撰和歌集撰進を命じられ、仁平元年(一一五一)には『詞花和歌集』を完成している。久安四年七月には法成寺塔供養に際し、皇太后宮聖子御給(一本には忠通北政所給)として正三位に叙せられている。保元の乱の前年、久寿二年(一一五五)五月六日に出家し、翌日に六七才で死亡している。
 長兄長実の娘得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになると、鳥羽院(通説では崇德天皇が行ったとするが誤り)はその兄弟の官職を一時停止したり、財産を没収したが、顕輔は白河院末期に失脚していたこともあって、同様の処分を受けることなく、逆に政界に復帰が可能となった。

 

« 藤原雅教と顕長2 | トップページ | 源義親の乱と大社造営 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 藤原雅教と顕長2 | トップページ | 源義親の乱と大社造営 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ