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2020年7月20日 (月)

斐伊川西流路消滅の影響

 旧斐伊川西流路沿いの村で慶長七年(一六〇二)の検地帳が残っているのは、杵築村と高岡村のみであるが、前述のように高岡村は寛文九年(一六六九)の検地帳との比較が可能である。慶長七年の高岡村の田は55%以上(28町7反弱)が反当たり石高1.5石以上(以下では「上田」と表記)と生産力は高い。それが六七年後には「上田」は23%余(15町弱)に減少している。もう一つの変化は慶長七年には一筆毎に細かな字が記されていたが、寛文九年には14の字にまとめられている。慶長七年の字には「流田」6筆、「砂子田」8筆、「古川」2筆など洪水との関係をうかがわせるものもあるが、その数は少なく、過去の洪水からかなり時間が経ち安定した生産が行われていたことがわかる。寛文九年の字が少ない背景としては、洪水により田の区画が変わったことがあろう。以前の記事では洪水の影響が寛文九年まで続いているために生産力が低下したと解釈していたが、洪水が多発したとされる寛永末年からでも三〇年ちかく経過しており洪水の影響そのものよりも、村の北側を流れていた斐伊川西流路が消滅したことで、灌漑の条件が悪化したためだと思われる。寛永一三年(一六三六)の国絵図には高岡の北を流れる西流路は描かれていない。高岡村の西南に位置する大塚村の寛文九年検地帳でも、「上田」の割合は17%余りである。高岡村の西に接していた粟津村(現在の平野町)の元禄二年(一六八九)検地帳でも「上田」の割合は12%弱にとどまっている。粟津村の検地帳は慶安二年分が一部しか残っていないが、「上田」の割合は80%弱で、田数も九町4反弱であった。屋敷数108間で面判銀159匁余が計上されるなど、町場的性格を残していた。これが元禄二年には「上田」の割合が12%弱と下がるだけでなく、上田数も三町五反強にとどまっている。
 粟津村西隣の常松村の場合は、元和七年には60%強(11町余)であった「上田」が、貞享元年には「上田」の比率は38%に下がったが、面積では11余町と横ばいである。高岡村北側の里方村の寛文一二年検地帳では「上田」の割合が43%、高浜村の慶長二〇年検地帳では62%弱と高いが、これは北山山地沿いを東西に流れる高浜川の利用が可能であったためだろう。その東に続く稲岡村の寛文九年検地帳では22%強、武志村の慶安元年検地帳でも7%余と低い。高岡村と同様、その北側を旧西流路が流れていた杼(杤)島村の寛文九年の「上田」は10%余である。これらの生産力の差の原因もまた、灌漑による用水確保が十分であったかどうかである。常松村、高浜村、里方村は現在の高浜川(寛永一〇年の絵図にもみえている)からの灌漑が可能であったが、旧斐伊川西流路からの灌漑ができなくなった高岡、杼島、粟津(その北端が高浜川に面している)、大塚、武志村では「上田」の割合が低い。

 

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