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2020年7月 3日 (金)

嘉承三年正月の伯耆守等人事1

 嘉承三年(一一〇八)正月の除目は初めて白河院主導で行われ、受領人事では前例の無視が行われたことを中御門宗忠がその日記『中右記』で批判したことが知られている。この除目は前年度後半から問題となっていた源義親の乱が鎮圧された中で行われたが、一方では院近臣藤原基隆が、三河国を返上して新たに伯耆国を賜りたいとの解を九月に提出していた。八月二五日に白河院は、基隆が堀河天皇のために百体の不動尊像を造立した事を、子である三河守隆頼の重任功に認定していた。
 今回の人事で乱により動揺した山陰道諸国の体制再建のための人事が行われたとの佐伯徳哉氏の評価(『中世出雲と国家的支配』、2014)は妥当であろうか。白河院に、自らとの関係を強めつつあった正盛に乱鎮圧の勲功を得る機会を提供せんとの意図があったのは確かであろう。義親の乱の実態が通説とは異なり、鎮圧の難度が低かったことはすでに述べたとおりである。正盛は隠岐守在任中の承徳元年(一〇九七)に伊賀国鞆田村を寄進して白河院に接近したが、隠岐守は六位相当で叙爵前に就任できるポストである。
 正盛の若狭守見任が確認出来るのは康和三年(一一〇一)九月であるが、前任者敦兼が越後守に遷任したのは康和二年初と推定され、正盛の叙爵と若狭守補任もその頃であろう。ちなみに嫡子忠盛は一八歳で叙爵し、二二歳で伯耆守に補任されている。忠盛の名は姉の夫で源義家の嫡男でもある義忠にちなむものとされ、義忠が暗殺された天仁二年(一一〇九)三月までに元服していた(忠盛は一四歳)ことになる。以前、正盛の隠岐守退任と若狭守補任との間にタイムラグがあると述べたのは早計で、遷任であった可能性が大きい。若狭守の前任者であろう藤原敦兼、因幡守の前任者藤原隆時(清隆の父であり、出雲守忠清の異母兄)はともに院近臣である。正盛の人事が院近臣の人事の中に組み込まれていることがわかる。
 正盛の因幡守への補任は、隆時の因幡守としての終見が嘉承元年九月二日で、嘉承二年一二月三〇日以前に死亡していることと、若狭守の後任源俊親が同二年正月一六日には見任していることからすると、嘉承元年末であろう。正盛は義親追討の賞として因幡守在任一年余りで但馬守に遷任した。前任者は高階仲章で父為章が国主であったと思われるが、嘉承二年九月一〇日に二一歳で急死し、欠員となっていた。
 話を戻すと、嘉承三年正月に、高階為遠が伯耆守から尾張守に遷任したのに対して、伯耆守には藤原家光が補任された。それとともに伯耆国は院分国とされた。家光の父俊綱は藤原頼通の二男であったが、正室隆姫女王の嫉妬の強さから橘俊遠の養子に出された。家光は俊綱晩年の子であったこともあって、頼通の孫花山院家忠の養子となり、藤原姓に戻った。叙位・補任としては、嘉保二年(一〇九五)正月に白河院が寵愛した郁芳門院御給で従五位上に叙せられ、翌三年正月に女院の分国とされた淡路国の国守に補任されたが、女院は同年八月に二一歳で死亡し、白河を悲しませた。その後中務少輔から大輔へ進む一方で白河院判官代となり、嘉承二年正月には従四位上に叙せられている。この頃は院のもとを訪れた人々の取り次ぎも行っており、院近臣であった。永久二年(一一一四)一二月一八日までは伯耆守としての活動が確認出来るが、元永二年(一一一九)六月二八日の時点では「故伯耆守家光」とみえ、伯耆守在任中に死亡したと思われる。

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