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2020年7月 7日 (火)

源義親の乱と大社造営

 長治二年(一一〇五)正月、大江匡房はわずか知行一年の備後国を返上し、出雲国を与えられた。どのような理由で実現したのだろうか。
 造営旧記をみると、六月七日には杵築社并豊山別宮、国内中社一一社の破損を報告し、翌年二月三日には官使を派遣して損色を調査することが政府により決定されている。治暦三年の大社造営から三八年が経過しており、新たな造営と遷宮の必要性は高まっていた。政府の対応は橘俊孝が偽りの報告(本殿が顛倒し、託宣があった)を出した時と緊急度の違いこそあれ同じである。大江匡房が出雲国への変更を求めた際の理由として大社造営も含まれていた可能性が高い。匡房は大宰権帥も務め、そのもとには豊かな実務経験を持つ人々がいた。第一弾として政府への報告がなされ、官使の派遣が決まったのは予定通りであった。
 この後の事について、後任の藤原顕頼は、その後指したる裁定がなく三箇年と述べているが、事実とは異なっている。家保の時は事態は切迫して居らず、造営に着手するか否かを決定するための調査であった。そして調査のための官使派遣決定から二年もたたない時期に家保は延任されることなく、出雲守を退任している。その原因となったのが隠岐に配流されていた源義親が配所を出て出雲国に渡り、目代と郎党を殺害したという報告であった。流人義親については嘉承二年六月二日にも話題となっているが、その後は音沙汰なしで一二月一九日になって、追討使因幡守平正盛が出雲国に下向したことが奉じられている。少なくとも六月二日の時点では切迫した状況にはなかった。
 対馬守源義親の鎮西での行動に対して追討が決定されたのは康和三年(一一〇一)七月五日であった。ところが、翌四年二月には召し取るために派遣された父義家の郎従が義親に与同したことが報じられている。最終的に義親とその関係者を捕らえ、隠岐への配流が決まったのは一二月二八日だった。嘉承二年六月の時点では隠岐の配所からの脱出や目代の殺害には至っておらず、処分の解除などが議題ではなかったが。その後の記述がないのは処分の変更がなかったからであろう。解除反対の中心人物として、義親の行為を摘発し、且つ大宰権帥藤原季仲の流罪により、急遽二度目の権帥となった匡房が想定できる。ともあれ、目代殺害の報告により追討使正盛の派遣が決まったもので、殺害は決定の一、二ヶ月前に発生したものであろう。
 この目代の殺害が、大江匡房-藤原家保体制下での大社造営を不可能とし、これに替わったのが藤原顕隆-顕頼父子であった。

 

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