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2020年7月 3日 (金)

嘉承三年正月の伯耆守等人事2

 今回の受領人事では院近臣が優遇された。駿河守平為俊と甲斐守藤原師季には「候院人也」とあり、伯耆守藤原(橘)家光は院分国の国守で、信濃守大江広房は堀河院分国の国守に補任された。堀河天皇は前年度に死亡しているが、分国の設定はなお行われていた。これに対して伯耆守から尾張守に遷任した高階為遠については矛盾する二つのコメントが付されている。すなわち、為遠が二期八年伯耆守を務めたにもかかわらず、続けて尾張守に遷任したのは破格の例であると、前例を無視した優遇だと批判的に述べているにもかかわらず、一方では、「八年在任したが、春御祈物を献じたことで遷任した。是は院に候しない人で、まげてこの恩があったか」と述べている(増補史料大成本『中右記』)。伯耆守の退任は二期八年が経過したためであり、遷任先の尾張守も院近臣ないしは摂関家有力家司の指定席である恵まれた受領のポストである。実際に前任者は藤原為房であった。「院に近い人なので、まげて‥‥」とならなければ論理的に理解できない。そこで、『大日本史料』で当該部分を確認すると、「不」は「又」の誤りで、『大日本古記録』でも同様だった。やはり為遠も院近臣であったがための優遇であった。
 佐伯氏が「院近臣ではなかった伯耆守高階為遠を尾張国に移動させて、伯耆を白河院の分国とし」と記したのは、史料大成本の記述の矛盾に気づき史料を再確認する作業を欠いたままなされたもので、内容としても不適切である。院近臣藤原基隆が尾張の隣国三河よりも伯耆を望んだのには、当時の三河国が、一宮造営などの大事業があり、成功を行いにくい国であった等の問題があったのではないか。一方、因幡守藤原長隆が補任された事について宗忠は、天皇蔵人からの起用だと述べているのみである。前述の信濃守大江広房については、白河院の蔵人一臈であったが、本来優先すべき前頭道明朝臣が受領を希望する中、院蔵人を起用したのは会釈無き事か、と批判している。為房の四男長隆が因幡守に補任された際の年齢は二六歳で、その頃に叙爵したと考えられる。叙爵年齢が、長兄為隆が一八歳、二兄顕隆が一七歳、三兄重隆が二九歳であることからすると、長隆の叙爵は為隆、顕隆とは異なり、重隆と同様、普通である。結果として因幡国から材木が提供されたことについても、大社の仮殿遷宮が終わり、正殿造営が始まったが、必要な材木が出雲国で確保できなかったため、約一年半の間、事業が中断した結果である。仮殿遷宮は顕頼が出雲守に補任された天仁元年(嘉承三年から改元)一一月一九日に終了し、二七日から正殿造営のための材木採が開始されており、天仁二年三月五日に大社本殿が顛倒し、一一月一五日に仮殿遷宮が行われたとするのは誤りである。作業を中断しての前後策の検討の結果、今回は出雲国に近い因幡国から材木が提供されたが、史料をみる限りは、提供したのが因幡国のみであったかは不明である。
 なお、一五才の藤原顕頼の出雲守補任は、その父顕頼が春宮(宗仁=鳥羽)大進を務めたことに対する賞を顕頼に譲ったものである。顕頼の背後にいた知行国主は父顕隆ないしは為房であるとされることが多いが、顕隆である。この点は知行国制がファジーであることを示してもいる。祖父為房は嘉承三年には六〇才であり、その前年五月には出家・引退せんとする為房を長子為隆(顕隆の同母兄)が訪問し、思い留まらせている。
 以上、嘉承三年正月の伯耆守の交替とその人事の背景と意味をみたが、佐伯氏の評価は、正確性、妥当性を著しく欠いたものである。

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