koewokiku(HPへ)

« 2020年6月 | トップページ | 2020年8月 »

2020年7月

2020年7月31日 (金)

記事の補足

 「高二十二万三千四百七十石」そのものは、慶長郷帳(慶長一五年=1610までに報告)の数字と一致し、「二十五万二千六百五十石七斗升」は正保郷帳(慶安四年=1651までに報告)の数字より一三〇〇石ほど少ないことを前の記事に補足した。寛永一三年国絵図の年次比定は妥当であろうか。寛永一三年1636絵図、一五年絵図、正保二年絵図を並べると、斐伊川流路では一五年が独特であるが、一方で「慶長日本図(寛永一六年頃成立)」の流路と共通性が高い。石高の問題を併せると、寛永一三年図の成立は一五年図より後と考えるほうが妥当である。
 通説では寛永一六年に洪水があり、斐伊川が完全に東流したとされてきたが、東流はもっと古く、寛永一六年の洪水の存在にも疑問が出されている。松江藩の収納高については松平直政が入部した寛永一五年以降の記録『雲陽大数録』がある。それによると、寛永一六年は371,465俵とまずまずの収納高で、翌一七年に271,652俵と悪化している。全国的には一八年と一九年が寛永の飢饉と呼ばれる状況であったが、島原の乱が発生した西日本では、それ以前から悪化していたとされる。松江藩での収納高の低下は正保二年まで続き、三年になんとか318,607表にまで回復した。その後、慶安三年1650に259,780俵と低下するが、その翌年から延宝元年1673までは何とか30万俵を維持した(この間に前述のように広瀬藩が独立)。それが延宝二年には大洪水があり、200,000俵という最低の記録となった。
 以上のように、寛永一三年図と一五年図の間と一五年図と正保二年図との間に二度も流路を大きく変える洪水があった可能性は低い。あったとすれば一回で、それは正保二年前半である。上鹿塚村の一宮明神の社殿が洪水で流出し、正保四年検地帳からは同村の耕地の半分以上が流路変更で河床となったことがわかる。
付記:この記事と関係はないが、ここのところ、東大史料編纂所のデータベースを見ていないことに気付いた。

斐伊川北進路について

 斐伊川は平野部に出た後、北西と北東に分岐していたが、現在の本流のように北進するルートはあったにしてもその規模は小さかった。その北進するルートが、寛永一〇年(一六三三)の国絵図(Ⅰ期)では一本であったが、寛永一三年以降の国絵図(島根大学附属図書館蔵、Ⅱ期)では二本に分かれた形で描かれている。次いで元禄一五年図(一七〇二、明治大学図書館蘆田文庫)以降(Ⅲ期)は現在に到るまで、北進ルートは一本にまとめられ、その河幅が拡大している。Ⅱ期の絵図の中でも微妙に異なり、寛永一三年図では二本の北進路は交わることなく宍道湖に注いでいるが、寛永一五年図では交わっている。これが正保二年図では交わってはおらず、それに続くのが元禄一五年図である。これによりⅡ期の中でも洪水等により何度か状況が変化したことがうかがわれる。「慶長国絵図(日本図)」に描かれている斐伊川は寛永一五年図に近い流路であり、その成立年代を知る手がかりとなる。その成立は少なくとも寛永一〇年より後となる。
 寛永一〇年図には北島村の北側を東北東に流れて宍道湖に入る流れがあるが、これが以前、康元元年(一二五六)の大社領注進状の時点で存在した流れ(冒頭の北東路)を継承するものであろう。これ以降の絵図では流れが変化し、確認できない。これと寛永一三年図以降にみえる東側の北進路は別ものである。そして二本の北進路では西側が先行し、これに続いて東側が生まれたが、現在の本流は東側を継承したもので、西側のルートは消滅している。県立図書館所蔵の「出雲国図 十郡(高二十二万三千四百石余)」はその成立時期を示すものはないが、二本の北進路が描かれ、且つ西側の流れが一部(石塚村以南)消滅しており、Ⅲ期(西側の流れが完全に消滅)に先行するものである。寛永一三年国絵図には「石高二十五万二千六百五十石七斗四升」とあるのに対して「高二十二万三千四百石余」とあり、寛文六年(一六六六)の広瀬藩(三万石の所領)と母里藩(一万石、当初は蔵米支給の内分分知で、一六八四年に独立した所領となる)の独立が関係するかと思ったが、この数字は万治期~寛文期(一六五八~七三)頃の成立とされる『武家諫忍記』に「出雲(略)古高十八万六千六百五十石、今高二十二万三千四百七十石、悉松江領也」とあるのと一致しており、絵図は一七世紀後半のものであろう。
 また、「出雲郡」ではなく「出東郡」の名称が使われていること、元禄一五年図以降楯縫郡とされる村々が出東郡内とされていることからもわかる。楯縫郡と出東郡の村々が同じ色で視されているため、久木村がいずれの郡に属するかは不明である。検地帳では、寛文八年までは出東郡であったが、翌九年から出雲郡に変更されている。
 なお、国立公文書館所蔵の正保二年出雲国絵図では久木村は周囲の村と色が異なり、楯縫郡であることがわかるが、これとほど同じ構図の正保年間出雲国図(島根県立古代出雲歴史博物館所蔵)では周囲の村々と同じ色である。
 同じく県立図書館所蔵の「出雲国簸川分間絵図 三」では北島村の飛び地が斐伊川本流西側にあり、「出雲郡中図面」では北島村分とともに神立村分も確認できる。これにより二本の北進路では西側が先行し、次いで東側が生まれ、最終的には西側は消滅し、東側が斐伊川本流として残ったことがわかる。本流が西側から東側に移ったことで村の土地が河床となり減少した北島村と神立村が、土地が増加した西側の村に飛び地を求めて認められたものであろう。両図とも文化四年(一八〇七)国絵図と共通性があり、一九世紀初めものであろう。寛永一三年絵図では西側の流れにより武志村が分断されており、この流れが消滅したことで「川跡」の地名と神社が生まれたと考えられる。
 以上をまとめると、寛永一〇年段階で北進路が本流であったが、その後の水害でその東側にも分岐した流れが生まれ、一七世紀末までに西側の流れは消滅し、東側が本流となった。
付記:「高二十二万三千四百七十石」そのものは、慶長郷帳の数字と一致し、「二十五万二千六百五十石七斗升」は正保郷帳の数字より一三〇〇石ほど少ない。

 

2020年7月28日 (火)

数字のマジック

 二七日夜の東京都の更新で、判明日による陽性者数が増加した。前回述べた二一日分は241が276に増加したのにとどまったが、二二日分(二五日の更新で初登場)が140から329に増加し、感染者数最多である二三日の366がある程度説明可能となった。一方、都知事は、131人の感染が確認されたが、それは検査数が連休で846と少ないためだと、いつものようにほざいた。何も理解していないことがわかる。これなら感染率15.5%となるが、それを質問する記者もいない(二つの数字には日のズレがある)また、現在のように感染者が増加している中で、なお検査が行われていないという問題もある。ここ一ヶ月の日曜日(六月二八日以降)の検査数は419→764→730→832→945と相対的には増加しているが、最多である二二日の5363(こちらは更新で数字が増加する)と比べれば少ない。陽性率で使用される検査人数(内数は陽性者数で、こちらの数字は対応しており陽性率が出されている)では、569(32)→900(92)→961(53)→1095(77)→1216(85)と増加しているが、本来ありうべき数字とは一桁違う。
 昨日は韓国の竜星戦三番勝負第二局、日本の女流立葵坏挑戦手合第二局、名人戦リーグ井山-張戦が注目されたが、すべて半目勝負であった。日本と韓国は白にコミ6.5を与えるので、黒番は盤面で7目以上の差を付けないと勝利できない。これに対して中国はコミ7.5なので、ルールで勝敗が逆転する。日本では一時期、当時の二大タイトル名人戦と本因坊戦でコミが違っていたことがあり、ともに林海峰-石田芳夫で争った挑戦手合いの勝敗が異なることになった。問題はAIで、AlphaGoの引退以降、世界の囲碁AIは中国が主導していることもあり、多くの囲碁AIはコミ7目半の設定となっている。そのため、AIは白半目勝(終局直前には100%に近づいているはず)としながら、日本と韓国では黒半目勝となる。youtubeの囲碁中継で日本棋院が利用しているKATANAというソフトはコミ6.5に対応していることが利点だというが、その形勢判断は接戦の場合は課題がありそうだ。
 立葵坏はAIが黒優勢の判定をしていたが、解説者はAIは攻め取りの判断が十分ではないのではないかとしつつ、白が優勢であるとしていた。その後、白にミスが出て損をしたが、結果は259手で白半目勝で、解説者の説が正しく、AIの課題が明確となった。名人戦は挑戦者決定に影響する一局なので急遽中継されたが、立葵坏以上に微妙で形勢が揺れ動いた。新聞解説の担当者高尾九段は一段落した段階で白優勢となったが、その後ミスが出て形勢不明となり、AIでは優勢であった黒に最後にミスが出て、261手で白半目勝ちとなった。韓国では朴廷桓九段-申眞諝九段という現在のランク2位と1位(世界ランクでは3位と1位)の対局で、361手で白番申氏の半目勝ちであった。361は囲碁版の目数(19×19)と同じという長い一局であった。上には上があり、2006年の名人戦挑戦手合第4局は364手で挑戦者(高尾九段)の黒番半目勝だったという。コミが5.5から6.5に変更されたのは2002年11月6日であり今と同じである。改訂前(コミ5.5)五年間の日本の公式対局で、黒の勝率が51.855%であったことから、6.5目に修正され、修正後四年間では黒の勝率が50.59%とわずかに低下した。最近のデータでは2018年の日本の公式戦で白の勝率が50.9%と変化している。半目勝は全4210局中黒105、白98と差が無いが、その出現率は5%弱である。AIの影響で定石が変わってきたことが白有利に変化した背景であろうか。2016年3月にAlphaGoが韓国のトッププロに4勝1敗、2017年5月には新バージョンが当時の世界ランキング1位の中国プロに三連勝している。
 韓国の申九段は現在20才で、昨年2月に長らく1位であった朴九段に替わって韓国1位となった。18才10ヶ月であった。今年の世界戦を含む公式戦の成績は38勝4敗。中国の柯潔九段は17才で国内タイトル挑戦者となり、18才1ヶ月で中国ランキング1位、18才5ヶ月で世界戦で優勝したが、19才10ヶ月でAlphaGoに敗北し、20才5ヶ月でAlphaGo引退後最強のAIとなった中国の絶芸(Fine Art)には置碁(黒番でコミをもらう)で敗れた。藤井棋聖と将棋AIとの対戦を望む声があるが、将棋AIは囲碁よりはるかに早い時期に人間を追い越しており、人間がわずかに死活判定で勝っているのみとされており、詰将棋なら勝利する可能性はあるが、実戦では柯潔九段がAlphaGoに敗北して涙を流したのと同じ結果となろう。柯潔九段はその二日後に世界戦で韓国棋士と対戦して勝利した際に「人類との対局はこんなにも気楽」とつぶやいたとされる。ただし、将棋AIは囲碁AIのように巨大企業が開発に関与していないという違いがある。AlphaGoは最終的には、囲碁だけでなく、将棋、チェスにも対応したAlphaZeroとなっていた。Zeroは2017年12月にチェス、将棋の最強ソフト、そして囲碁専用のAlphaGoZeroを凌駕したことが発表された。チェスでAIが人間を上回ったのは1997年、将棋の場合は将棋連盟がAIとの対局に消極的であったため不明だが、2013年から14年には人間を上回ったと思われる。将棋と囲碁の場合の数の違いから、囲碁はなお10年以上かかるとされたが、ディープラーニングの手法と圧倒的なコンピュータのパワーが、不可能を可能とした。

2020年7月27日 (月)

八雲山と国造館

 『愚考記』が旧島根県史で利用・言及されていないか確認したが、そのような箇所は見当たらなかった。旧県史編纂時に作成された大量の近世史料の謄写本は、『旧島根県史編纂資料 近世筆写編』として紙焼きを合本した冊子で閲覧することができるが、その中には含まれていないので、予想してはいたが。その中で「八雲山」をめぐる松江藩の裁許状(北島家文書)に遭遇した。「八雲山」という固有名詞は認識していなかったが、大社本殿をめぐる問題の中で。大社の本殿が一六丈とか三二丈という神話が生まれた背景に、大社そのものが過去に背後の山上にあったことを想定していた。
 この問題に関しては裁判当事者である北島・千家両家からその主張を裏付ける資料が提出されたはずであるが、裁許状以外はほとんど公開されていない。昨年新たに確認された北島家文書の中に残されている可能性はあろう。詳細は不明であるが、北島家が八雲山は北島家が代々管理してきたとしたのに対して千家側は大社のものであり、自らの権利もあると主張し、松江藩は従来どおり北島家の管理を認めたが、裁判が大事に至ることは回避し、北島家から千家方に文書を出すことを求めている。
 この八雲山の問題は国造館の問題と関係している。北島家が主張しているように、分立前の国造館は寛文の造営まで北島国造が使用していた。これに対して、千家国造館は本来の大社惣検校(神主)館である。国造館が境内にあり、神主館は境内外にあったのは両方の職の違いによる。神主館となる以前は、国衙の大社政所であったと思われる。国造は祭祀を担当したが、神主は祭祀のみならず、大社領の管理にあたった。神主は領家が補任し、交代も頻繁にあったが、国造は世襲に基づき国司が補任した(といっても現在残る国司の補任状は。いずれも後に作成されたものである)。鎌倉幕府成立に伴い、源頼朝と領家藤原光隆の支持により神主に補任された内蔵資忠も祭祀を司った。ただし、遷宮時の御神体奉懐など古き由緒を持つ国造にしかできない職務もあった。後に国造が神主を兼任するようになると、過去の歴史を書き換えてしまったが、本来は別の由緒を持つ二つの職、それが神主と国造であった。
 造営関係文書の核となる文書やそれに関係する指図はいずれも国造館で北島家が保存してきたが、分立後、そのような由緒を所持しない千家側は本来の指図(分立前に千家孝宗も接しており情報は持っていた)に新たな情報を加えて「金輪造営図」を作成し、中世最後の正殿造営となり、文永七年正月に焼失した本殿とその周辺を描いた絵図を密かに作成した。そこでは、神主館が異様なほど大きく描かれる一方で、本来の国造館はどこにあるのか分からないように描かれている。この絵図が宝治二年造営の大社本殿にあったものだという根拠なき説が説かれるが、千歩譲って、造営文書とは別に大社政所が管理していた可能性はゼロでないとしても(この表現は実質的にゼロという意味)、それに関する情報を北島家が持っていないことなどあり得ないのである。この絵図を利用した研究は他のデータで確認できる事以外、使い物にならない。また、両国造家による歴史の改竄が行われていることもすでに述べたとおり。内蔵資忠は非国造系出雲氏であり、その点では平安末に最初に経済力を背景に神主に補任され、次いでたまたま国造が早世した時期に、元国造兼忠のかなり年の離れた妹の婿となって、強引に国造となった出雲宗孝も同じである。それなのに(それだからこそ)国造家はライバルの内蔵資忠・孝元父子を中原姓であると改竄してしまった。北島家では千家方の主張する国造館は中原孝元が神主であった際の館であると主張しているが、ある意味正解だが、ある意味では不正解である。問題はきちんと史料を分析できない研究者にある。

根拠ある説を2

 同じ論文の中で、①「駄別を賦課された場所が杵築(門前)であったこと、宇龍における徴収が先年からの新しい措置であったことを尼子氏自身も認めざるを得なかったことがわかる。」②「宇龍浦において徴収しなければなかなかった事情とは、永禄6~7年頃の尼子氏が杵築を毛利氏に制圧されて、日御崎社への優遇措置が島根半島西端の確保に不可欠であったためである可能性が高い。」についても謂わば「昔の名前で出ています」説であり、論理的に破綻していると思う。①については近世との実態から誤りであることはすでに述べた。②について言及する。
 宇龍を含む杵築七浦に海賊衆と呼ばれる漁業と水運に従事した人々がいたこと、また美保関でも述べたが、関所には本来税を徴収する機関が独立して置かれ、その上に立ってその地を掌握した権力が税を徴収することになる。海賊衆と税関の人々は権力から一定程度独立しており、権力との関係も流動的であった。また、永禄五年から八年にかけて、日御崎社に毛利氏関係文書は残されていない。日御崎神社関係者で富田城に籠城した人がいたかも不明である。
 当方が尼子氏の日御崎社への寄進状から考えるのは、現在こそ毛利氏の支配下(とはいえ独立性はある)にあるが、大内氏の時のように、外国勢が撤退した曉にはさらに優遇することを約束したものではないか。毛利氏の出雲国入りからしばらくは、そのような「二匹目のドジョウ」の可能性もあると思われたのではないか。そのため、坪内氏惣領や温泉氏のように、富田城に籠城した商人・国人もいた。
 前回は大内氏方となった国人に対して、尼子氏から撤退後厳しい報復措置が取られた。そのためか、本庄氏が粛正された後も、尼子氏方に戻らず、毛利氏に最後まで協力した有力国人の方が多数派であった。なお、宇龍の新寄進は大内氏による出雲国攻めの際にも見られたが、一方では大内氏から日御崎神社への懐柔措置も行われた。年月日を欠いているが、その際の文書の写しが、近世の浦同士の裁判で支証として提出されている(松江藩郡奉行所文書)。その中には「神西方如存知当国之有躰不及申候へとも、近年国取合依有諸式致其堪忍候」「社領事、郡之内候之間此砌社領等相違之在所、先以七浦にて候」と、塩冶興久の乱で国外に追放された神西氏惣領の処遇と、杵築七浦の問題に言及されている。昨年一一月に確認し、写真は井上氏にも報告している(中世の新出文書はこれを含む二通)。
 なお、武士への所領給与と同様、寄進も半永久的なものと一時的なものがあり、尼子氏による宇龍の寄進は後者である。

2020年7月26日 (日)

東京のデータが変?

 これまで毎日夕方に発表される①感染者数と陽性率のコーナーの②陽性者数をみてきた。検査してから感染者数として公表されるまでのズレが生じることは説明がつくと思っていたが、ここにきて説明不能となった。①は検査結果の判明日(区・市から都に報告)を基準とする数字で、②は区・市に発生届が提出された日を基準とするとあり、①は一度発表されると不変であるが、②はその後の追加で増加する。そして結果的には②と①の数字には1~2日のズレがみられた。具体的には②は七月一六日に「340」という最多の数字を記録した。その前後一五日が「287」、一七日が「278」と、一六日が頭一つ抜けていた。これが①では一六日が「293」、一七日が「293」、一八日が「290」と分散した形となった。これは十分理解可能である。その一週前も同様であった。ところが次の週の①は周知のように二三日が最多の「366」を記録し、二二日は「244」、二四日の「260」に差を付けている。ところが②をみると、二一日の「242」が最多で、二〇日が「206」、二二日が「140」と①との差があまりにも大きいのである。東京都は「モニタリング項目」ではなく「その他の参考指標」の中で、③検査により陽性であることを医師が確認した日別(確定日別)に整理した陽性者数も公開している。②の判明日と③の確定日の違いは微妙でそれほどの差がでるはずはないが、③は①の数字と一日ずれた形で。二二日が「386」で最多で、二一日が「244」、二三日が「259」である。
 ②の数字はなお追加される可能性があるといっても差が大きすぎる。例えば②で今週最多である二一日の「241」は二二日に初めて「217」とされ、二三日、二四日は更新がなく、二五日に「241」となった。とても①の最多である「366」まで増加するとは予想しがたい。なぜ②を問題にするかといえば、②の数字を検査を受けた人数で割ったものが「検査の陽性率」として現状を判断する根拠となっている。実際には一日の数字ではなく、一週間の数字から算出しているが。それにしても今週は、検査人数を含めて少ないのである。一日毎の陽性率はここ最近では二一日の7.0%が高く、二四日は5.9%である。東京都が公開している一週間の陽性率は6.3%である。現時点で今日二六日の更新はなされておらず、二五日20:30の更新となっている。間もなく更新があるかもしれないが、これまでの数字からすると、②の二一日の「241」と①の二三日の「366」の間の隔たりは余りにも大きいのである。
 日経のデータでは大阪府PCR検査数は一九日が0、二〇日が2800以上となっているが、大阪府のサイトをみると、1600以上の日はない。早くミスを訂正すべきである。七月二〇日の時点で、日本の人口の四割強の韓国で、日本の二倍以上のPCR検査が実施されてきた。

2020年7月25日 (土)

鉄穴流しの禁止と解禁

 『鉄山旧記』に慶長一五年(一六一〇)「御入部、鉄穴御停止」とある事について、関連史料はないかと思っていたら、『平田町誌』で『愚考記』にも同様の記述があるとして引用されていた。
 「堀尾公松江へ城移しの後、仁多飯石大原の三郡より鉄穴流しを願ふ事凡十八度、更免許なく、(略)然に京極若狭守領所の時免許と聞伝ふとなり」と。そこで原典を確認すると、県立図書館にはそのコピーが所蔵されていたが、所蔵者森広家の地元の出雲市立図書館は検索してもヒットしなかった。森広家には天明の飢饉時の一揆関係史料が所蔵されているが、『出雲市大津町史』をみても、「愚考記」にはまったく言及されていない。天正元年の洪水については同家所蔵の「森広譜録」(元本と新本)が利用されているが、『愚考記』が県立図書館にどのような経緯でいつ入ったのか不明である。森広家所蔵史料のいくつかの謄写本がある東大史料編纂所でもヒットしない。
 その内容に入る前に、「御入部」の意味を確認したところ、堀尾吉晴の子で初代松江藩主である忠氏が慶長九年八月に二七才で死亡したことにより、六才の子忠晴が藩主となったが、実際は祖父吉晴が政務を行っており、忠晴の親政は慶長一六年に祖父吉晴が死亡した後である。同年に松江城は落成し、富田城からの移動は完了していた。その前年に吉晴の「最期の」判断で鉄穴流しが禁止されたことになる。理由は、鉄穴流しの砂が宍道湖に堆積し、要害としての松江城の機能が発揮できなくなるからとされる。当然、その前提として斐伊川がすでに東流していたことになるが、一方、寛永一三年に京極忠高が鉄穴流しの再開を認めた理由も問題となる。鉄穴師からは何度も禁止の解除を求める願いが出されていたが、寛永一三年に至り何が変化し、忠高が解除したのだろうか。
 『愚考記』にはもう少し具体的に記されているが、『平田町誌』の記述は原史料を書き下したものではなく、要約したものであった。『愚考記』は元禄六年頃に成立したと思われるが、その後天明四年に加筆されており、鉄穴流しに関する部分は後者である可能性が高い。
 堀尾忠氏に対して三郡から願書が出されたが、祖父吉晴が死亡した時点で忠氏は一二才であり、なお藩の重臣達が判断していた。そこで三郡は二〇代となった忠氏の判断を仰ぐべく願いを松江藩大目付に提出し、忠氏自身が判断することを求めた。これが堀尾氏に対する最後の=一八度目の願書であったが、忠氏は重臣達の説明に納得し、やはり不許可であった。その中で重臣達は城が富田なら禁止にはしなかったとして、松江だからこその禁止と説明している。京極氏の治世については免許されたことのみ記し、『鉄山旧記』のように京極氏のもとでの三度目の正直であったことは記されていない。
 堀尾氏が慶長一五年に禁止した理由と京極氏が寛永一三年に許可した理由は何であろうか。慶長一四年には斐伊川下流域で洪水が発生しており、松江城下町への影響のみが禁止の理由ではなかろう。堀尾氏が藩主であれば禁止が解除されなかったとも考えにくく、禁止とともに課題克服の対策に着手していたはずであり、京極氏が解禁したのも堀尾氏以来の対策の成果を踏まえたものであろう。要害としての松江城の問題については、豊臣秀頼の滅亡により、軍事的緊張は緩和していたと思われる。寛永一三年とは前年に大名の参勤交代を制度化した新たな武家諸法度も出され、度重なる鎖国令により幕府の体制も完成に近づいていた。
 以上のように、当初は軍事的要因が主であったかもしれないが、一方で斐伊川下流域での水害対策も禁止の原因であり、次第に水害対策が禁止の主な要因となっていた。京極氏が鉄穴流しを解禁したのは水害対策の整備が進んだとの判断であり、なお対策を進める予定であったろうが、京極氏は断絶し、藩主は松平氏に交代した。松平氏は京極氏の対策を継承したであろうが、鉄穴流し再開による斐伊川河床の天井化のペースは想像以上であり、その後も洪水が多発した。
 『愚考記』には大津町の移転(旧と新)の問題や、天正元年の洪水時の森広家が、新町下の斐伊川に近い場所(石塚村かけど)にあったことも記されている。この関連部分は元禄年間の成立であろう。

2020年7月24日 (金)

東京都下のコロナ禍データ

 昨日判明した感染者数(検査から公表まで四日程度かかるという)が過去最多の366人となった東京都のデータは毎日閲覧しているが、個々の区・市、とりわけ感染者急増で警戒されている新宿・池袋と新宿区に次いで感染者数が多い世田谷区のHPを閲覧してみた。
 池袋のある豊島区はほとんど独自性が感じられない。区内の発生状況も都発表分の累計数を出し、後は都のサイトで確認してね、という感じである。七月一三日のブロク記事で七月一一日時点で三〇一というのを都のHPから載せたが、その後の増加数は5、5、4、7、6、15、3、0で、七月二〇日現在三四五人である。都のサイトでは二二日現在三六〇人で、本来、区のサイトで最新の情報が得られるとの予想は、見事に外れてしまった。ちなみに、豊島区長は都知事(国会議員時代の選挙区であった)べったりの人物とされている(新宿区長と豊島区長への対応があまりに違うとの報道)。どこを向いて仕事をしているのかわからず、お粗末。
 新宿区は「小池都知事はコロナ感染者数を操作している 「連日200人超え」を演出したカラクリ」との記事の中で次のように言及されている。「新宿区は区のPCR検査スポットで判明した新規感染者も、別途公表している。それを見ると、都が発表した区全体の新規感染者が2人だった6月30日、検査スポットで判明した陽性者数は42人。9人だった7月1日は25人で、3人だった6月23日も12人。だが検査スポットでの数字は、新宿区全体の陽性者数の一部であり、それが全体数を大きく上回ることなど、本来ありえないはずである。」。その記事には都と新宿区の感染者数の表が掲載されており、七月三日、四日の区の感染者数は42,44である。都のところで述べたように、陽性者数は検査日基準で発表され、感染者数は当日九時までに区から都に報告し、それを都がとりまとめて24時間に判明した数として公表しているようであり(公表前=昼過ぎに都知事が何人程度だとほざいている)、検査から結果が出るのに四日程度かかるためのズレだと思われる。
 新宿区長は政府与党都議会議員(著名な歌人夫婦の孫である国会議員の秘書出身)からの転職で四八歳。コロナ関係データは豊島区よりましだが、やはり都のサイトに依存している。区のPCR検査数は月ごとに公開されており、六月は検査スポット分が一二六六人受診で二二六人陽性、区保健所による事業所のクラスター対策検査分が四五九人受診で一一七人陽性となっている。スポット分が70%程度を占めている。
 これに対して東京都最多人口の世田谷区のサイトは詳細且つ独自性があり、関心をもたれた方は是非、自分の目で確認していただきたい。区長が違うと姿勢を含めて全くレベルが違うことが実感できる。区長は元社民党国会議員であるが、その名が知られたのは内申書と入試に関する裁判である。国会議員時代は個人での当選ではなく、惜敗率による復活か比例によるもので、特に前者に対して批判する意見(小選挙区で大敗した人が当選するのはおかしい)があったが、2011年に前区長の引退をうけて、候補者七人による選挙で勝利し、その後は二回の選挙で政府与党候補者に大差を付けて再選されている。そのブログをみれば政治家としての人となりと力量がわかる。まさに無能な首相の対局にある人物で、実績を評価され個人票を集めたのである。日本の政治家で個人票で当選できる人が何人いるだろうか。ブームで当選したかと思えば、その実績でメッキがはげてしまう人が多い。その世田谷区長が都はコロナ問題でほとんど頼りにならないと述べている(論座の愛知県知事との対談)。なお一一日現在で、新宿区1101、世田谷区614、豊島区301であることを紹介したが、都公表の二二日現在はそれぞれ、1550、775、360であり、一一日間でそれぞれ、449、161、59増加とどの区も多いが、やはり豊島区は新宿区とともに名指しで報道されたほどではない。都のデータは感染者数以外二二日夜の更新が最後となっている。追加が予想されるためであろうが、一日毎にきちんと報告すべきである。

2020年7月22日 (水)

東京都の死亡数とコロナ禍

 六月中旬に東京都の四月の死亡者が過去五年の平均に比べて1058人多く、その多くはコロナ禍ではないかと報じられた。四月末のコロナ禍による死亡者の累計は120人だったが、実際の死亡者ははるかに多かったと主張していた。大筋では正しいと思われるので、データを確認してみた。なお、記事によれば昨年一二月~今年三月の超過死亡数はそれぞれ323、259、-703、423であり、1058という数字が大きいのは間違いない。本来、その月の末に人口統計が更新されるが、四月のデータは六月一四日になってようやく更新されたという。その直後に前述の記事がアップされた。
 とりあえず五月をみると、例年(三年分を比較)は四月より1000人以上多いが、今年は800人少ない。推測ではあるが、五月(正確な数は不明だが、首都圏での累計死亡者は五月末までは四月に同程度のペースで増加していたが、六月に入り増加のペースが落ちている)も四月と同様のコロナ禍による死者があったが、コロナへの対応が進んだために、漏れた数は減少したのであろうか。
 とりあえず、二〇一九年一年分と二〇二〇年と二〇一八年の一~五月分のデータをメモしてみた。その際に、出生者も確認し、且つ東京都全体とともに、感染の中心は区部だとの予想に基づき区部のみのデータも確認した。問題の四月を区部でみると、二〇一九年より415人、二〇一八年より756人多い。今年の四月が多いのは確かである。五月の死亡者6332人は区部のみでも今年で最少である。
 ここからコロナ禍から離れるが、年間で死亡者が多いのは一月で二位の二月を2000人以上、区部のみでも1500人以上引き離している。出生数では五月と七月が多く、これに次ぐのが一〇月である。これに対して最少は二月である。多くの月で死亡者が多いが、七月は出生者の方が多い。区部に限れば、八月、九月も出生数が上回っている。この違いの原因は区部以外で高齢者の割合が高く、死者が多いためである。九月の区部では238人出生者が上回ったが、全体では503人死亡者が上回り、逆転している。東京都の区部ですら、人口は自然減で、社会増により全体では増加していることがわかった。
 東京都のデータについては、毎日上書きしていたが、ここ一週間ほど、検査日による陽性者数のみは七月のデータを残して、どのように追加され変化したかを確認したい。報道される感染者数との関係をみるためである。検査数が極端に少なくなる日曜から土曜までを一単位としてみると、これまでは検査日に基づく陽性者数(後日に追加される)が増加して一日ずれて感染者数(追加はない)が増加していたが、今回はやや理解しがたいデータとなっている。陽性者数は一五~一七日(最多は一六日の337)が多く、感染者数は一六日~一八日(最多は一七日の293)が多かった。それが、追加があるであろう陽性者数が一九日70,二〇日131であるのに対して、感染者数は二〇日168、二一日237とかなり差があるので、どのように追加され変化したかを確認する。一週間前の陽性者数は一二日53、一三日167であったが、一九日と二〇日は今後の追加で一週間前を上回り、ピークも最多の337を更新する可能性が高いと予想している。当然、感染者数の最多も更新することになる。

2020年7月20日 (月)

根拠ある説を

 人名比定について述べたが、それ以外でも根拠なき説が目立つので、一日も早く修正してもらいたいので述べる.まだそんな説を信じている人があったとはというのが実感である。
 『「たたら製鉄」の活率過程と鐵の流通』(島根県古代文化センター)所収の論考の中で、二人が年未詳二月五日尼子氏奉行人連署米等作留状について言及していた。一人は旧説である永禄四~五年とし、もう一人は永禄初年としていた。本ブログでは永禄一から二年に比定したが、三年についてもその可能性はある。ただ、四年となると、二月一三日尼子氏奉行人連署書状の立原幸隆の花押がすでにⅡ型に移行しており、八日の間に花押を変更する契機となるような事件は起こっていない。ということで四年~五年説は根拠無き説である。
 四~五年説の根拠となったのは出雲国と石見国の間の緊張関係であるが、永禄二年七月の尼子晴久による小笠原氏支援のための出兵が失敗して以降は、銀山と山吹城周辺こそ尼子方が死守していたが、その他の地域は銀山の外堀を埋めるように次々と毛利方の支配下に入り、尼子氏と協力していた温泉氏とその関係者も出雲国に逃れる事態となっていた。永禄三年五月二四日尼子晴久書下、義久書下と晴久袖判奉行人連署奉書(波根家文書)により、永禄二年に邑智郡飯山に在番していた波根五郎左衛門尉が欠落したため、一族の駿河守と四郎左衛門尉に五郎左衛門尉跡の所領が与えられている。六月二〇日には、これから山吹城番として出張する鞍掛豊勝が晴久の證判を得た上で日御崎社に神門郡久留原村内の所領を寄進している。以上のように、永禄三年二月三日に比定して問題はない。前回は「如法度」に注目して、永禄元年六月の尼子氏による杵築法度の改定との関係から述べた。その場合は永禄元年二月三日ではあり得ず、永禄二年か三年となる。
 永禄一二年閏五月から六月にかけて、木次市庭中と平田目代等は杵築の坪内氏らに書状を出して、市の縄張りをめぐる対立の調整を図っている。これに関して三氏が述べられた説はいずれも大社領である「うと」(千家方)を平田の縄張りとする致命的な誤りを犯していることはすでに述べた通りである。この問題に注目するのは、なおこの時点で斐伊川西流路が存在したこととの関連である。天正元年に斐伊川で洪水が発生したこととすでに一定規模の東流路が存在したのは確実である。前回述べた慶長七年高岡村検地帳により、この時点でも西流路が消滅するような洪水が発生していないことも確認した。
 一方、寛永一〇年、一三年、一六年と諸説あるが、この洪水時点ですでに西流路が消滅していたのは確実である。「慶長日本図」(ただし成立は寛永年間とされる)では、斐伊川とその東側の支流と神戸川しか描かれていないが、それは西岸には斐伊川とつながるような川がなかったためである。目的に必要な情報のみ記される。「寛永一〇年出雲国絵図」でも同様だが、北山山地沿いを流れる川も描かれているが、斐伊川とはつながっていない。なお国絵図の各村の位置は極めて不正確であり(池田文庫蔵「寛永一〇年図」、国立公文書館蔵「正保二年図」ではそれぞれ北島・千家・富村の位置が混乱している)、郡の堺に関心があったと思われる(ただし、建前と実際で所属する郡が異なる村が多数あった)。
 現時点では慶長一四年の北山山地周辺の豪雨に伴う洪水・土石流で、斐伊川西流路が縮小し、その後これをせきとめ、東流路を整備することが行われたと考える。関ヶ原の合戦で出雲国に入部した堀尾氏は城下町松江の整備とともに、検地による領内の実態把握を行っていたが、このまま鉄穴流しを続けては城下町に洪水が起こるとの判断から鉄穴流しを禁止した。従来、この問題と斐伊川東流の関係が考えられていなかったのが不可思議である。寛永一三年に新領主京極氏に対する三ヶ年に及ぶ鉄穴師の訴えを受けて禁止が解除されたのは、堀尾氏と京極氏による斐伊川東流路の整備が行われた結果であった。ただし、予想を越えてその後も斐伊川沿いの洪水は多発した。慶長一五年の鉄穴流し禁止の背景には、それ以前に中国山地沿いでの鉄穴流しが大々的に展開されたいたことが前提条件となる。根拠に基づく柔軟な見直しが必要である。斐伊川東流問題がこれまで未解決であったのは、根拠に基づき論じることが主流とならなかったからである。 

 

斐伊川西流路消滅の影響

 旧斐伊川西流路沿いの村で慶長七年(一六〇二)の検地帳が残っているのは、杵築村と高岡村のみであるが、前述のように高岡村は寛文九年(一六六九)の検地帳との比較が可能である。慶長七年の高岡村の田は55%以上(28町7反弱)が反当たり石高1.5石以上(以下では「上田」と表記)と生産力は高い。それが六七年後には「上田」は23%余(15町弱)に減少している。もう一つの変化は慶長七年には一筆毎に細かな字が記されていたが、寛文九年には14の字にまとめられている。慶長七年の字には「流田」6筆、「砂子田」8筆、「古川」2筆など洪水との関係をうかがわせるものもあるが、その数は少なく、過去の洪水からかなり時間が経ち安定した生産が行われていたことがわかる。寛文九年の字が少ない背景としては、洪水により田の区画が変わったことがあろう。以前の記事では洪水の影響が寛文九年まで続いているために生産力が低下したと解釈していたが、洪水が多発したとされる寛永末年からでも三〇年ちかく経過しており洪水の影響そのものよりも、村の北側を流れていた斐伊川西流路が消滅したことで、灌漑の条件が悪化したためだと思われる。寛永一三年(一六三六)の国絵図には高岡の北を流れる西流路は描かれていない。高岡村の西南に位置する大塚村の寛文九年検地帳でも、「上田」の割合は17%余りである。高岡村の西に接していた粟津村(現在の平野町)の元禄二年(一六八九)検地帳でも「上田」の割合は12%弱にとどまっている。粟津村の検地帳は慶安二年分が一部しか残っていないが、「上田」の割合は80%弱で、田数も九町4反弱であった。屋敷数108間で面判銀159匁余が計上されるなど、町場的性格を残していた。これが元禄二年には「上田」の割合が12%弱と下がるだけでなく、上田数も三町五反強にとどまっている。
 粟津村西隣の常松村の場合は、元和七年には60%強(11町余)であった「上田」が、貞享元年には「上田」の比率は38%に下がったが、面積では11余町と横ばいである。高岡村北側の里方村の寛文一二年検地帳では「上田」の割合が43%、高浜村の慶長二〇年検地帳では62%弱と高いが、これは北山山地沿いを東西に流れる高浜川の利用が可能であったためだろう。その東に続く稲岡村の寛文九年検地帳では22%強、武志村の慶安元年検地帳でも7%余と低い。高岡村と同様、その北側を旧西流路が流れていた杼(杤)島村の寛文九年の「上田」は10%余である。これらの生産力の差の原因もまた、灌漑による用水確保が十分であったかどうかである。常松村、高浜村、里方村は現在の高浜川(寛永一〇年の絵図にもみえている)からの灌漑が可能であったが、旧斐伊川西流路からの灌漑ができなくなった高岡、杼島、粟津(その北端が高浜川に面している)、大塚、武志村では「上田」の割合が低い。

 

二つの感染者数

 東京都の公開するデータで、唯一その後の変更(更新)がないのが、その日(何時からの二四時間かは不明、大阪府は一六時で区切っている。)の感染者数である。検査がいつ行われたかに関係なく、二四時間で判明した数字である。正確には「新規患者に関する報告件数」で、保健所から発生届が提出された日を基準とするとの注記がある。その意味では全体の傾向をみることはできるがその日の陽性者数としては不正確である。これに対して「検査の陽性率」で示されている「検査人数」は、検査日毎の人数である。こちらは検査結果が出るまでの時間差に応じて四~五日の間追加されている。少し前は二~三日だったが、検査数が増えたことで、幅が広がったのだろう。以下では前者を感染者数、後者を陽性者数(名前の違い以上に内容に違いがある)と表記する。
 緊急事態宣言中の感染者数のピークは四月一七日の206であったが、陽性者数は四月一一日の159である。四月の合計では感染者数の3207に対して陽性者数は1502と倍半分の違いがある。前に検査数と検査人数に差があることを述べた。四月でいうと前者は四月二七日の1747が最多であるが、同じ日の後者は298でしなかい。ちなみに後者の最多は四月三日の551で、この日の前者は557と差が少ない。それが三日後には356に対して1081と一気に差が拡大している。以前は経過観察のため一人で複数回の検査を受ける人がいるからだと考えたが、差が大きすぎる。データの入力を始めたのは七月八日からで、翌九日に初めて記事を上げたが、感染者数以外はその後の追加で数字は増えている。おそらくは、四月には、対応に追われてその後の追加がなされていなかったと思われる。そのヒントとなるのが、日経サイトの「東京都のPCR検査人数」で、この数字は最初に上げられたものへの追加がなされていないのである。その最多は七月一五日で約3800であるが、追加された東京都のデータでは4187、翌一六日は日経では減少して約3500だが、東京都では4485と、最初の発表より1000近く増加している。四月二七日の検査人数を日経でみると約300人である。やはり東京都も以前は後で判明したデータを追加していなかったことがわかる。とすると、緊急事態宣言時のデータを現在のデータを比較するのには限界があることになる。一気に力が抜けてしまった。これも「日経様々」である。これがそのままだったので判明した。となると、政府が把握しているデータも同様ではないか。東京都が公開しているデータが過去には追加がされていなかったのだから。
 ちなみに、東京都の検査数(前者)は一六日までしか掲載されていないが、日経ではすでに一七日の検査数が約1200弱となっている。公開サイトには未掲載だが、報道機関向けには出したのだろう。検査数が少ないのは日曜日なので、一七日の検査数はその後の追加で4000程度にはなるであろう(1200から三倍以上になることが分かっているので掲載を控えているのだろう)。1週間前の一〇日は3956であった。そうなると、日経様々といつまでも言うわけにはいかず。担当者はもっと真面目に更新しろ、となる。
追記:一八日の検査数も一九日には報道機関に配布されたのだろう。日経では2500弱となっている。都は依然として一六日までで、その後の追加もされていない。本日二〇日が検査数が低くなる月曜日で、明日に最初の発表がされるのだろう。日経には一八日の全国の検査人数(検査数であろう)も掲載されており、7000余で、一六日の17000弱が最多である。ただし、実際は追加により変わってくる。
 なお、現時点で陽性者数が最も多いのは七月一六日分で検査人数3827に対して329で、感染率8.6%である。この数字は一七日追加分までしかアップされていないので、検査人数、感染者数ともになお一割程度は増えるのではないか。そうなると350超である。現在一六日の293が最多とされるが、これは一六日の特定時刻までの24時間に報告があった数でしかない。一七日の2週間前の七月四日前後に感染した人が多かったことになる。

 

2020年7月17日 (金)

日記の登場人物の比定

 以前の記事で『兵範記』久寿二年七月二四日条について活字本(通覧版=国会デジタルで公開、増補史料大成本)の問題点を指摘した。「□□□家長」と翻刻された部分が、実際は「□□□」の部分は前の「同少将」実長と同じなので省略されていたもので、「家長」(家成の異母兄)も「家明」(家成の子)が正しかった。そのきっかけは『広島県史』古代中世資料編で八月一日の記事をみて、疑問を持ち確認したことであった。『広島県史』は既成の活字版を利用したと思われ八月一日条には「美濃守家長」となっていたが、当時の国司補任と矛盾し、別本の「美作守家長」が正解であった。
 最近の記事では『中右記』嘉承三年一月二四日条で尾張守に遷任した高階為遠について、大成本が「不候」と翻刻した部分が「又候」が正しく、為遠もまた院近臣であったが、大成本に基づくと院近臣でなかったと解釈されてしまう。『中右記』は新たに大日本古記録として翻刻中で、嘉承三年は出版済みなので、訂正は容易であるが、未刊分はそうもいかない。最近刊行された『鳥取県史』では正しく翻刻されている。
 今回は『長秋記』長承三年八月一四日条を『鳥取県史』で確認したが、大成本に基づいている。『長秋記』は良い写本がないとの話を聞いたこともあり、大成本が採用されたのであろう。ここの部分は、得子が鳥羽院の寵愛を受けた際のその兄弟(長実子)の処遇が記されているが、その中に縁者でない藤原顕頼が含まれていた。通説では顕頼もとばっちりをうけて財産を没収されたと解釈されているが、それが誤りであることは前に述べた。顕頼は鳥羽院の側近で摘発した側であった。
 この記事について、院政期の知行国制度を検討した五味文彦氏は、顕頼が登場する前の、得子の兄弟三人が処罰されたところまで引用し、この事件が待賢門院の訴えによるとする角田文衞氏の見解はおそらく正しいであろうと述べた。この角田氏の見解が誤りであることは既に述べた。長実の嫡子顕盛が白河院の権威を背景に、鳥羽院の要望を握り潰したことで、白河院の没後、鳥羽院から修理大夫を解任され、一旦復帰したが、すぐに修理大夫を望んだ近臣藤原基隆に交代させられた。この顕盛は白河没後に新たに待賢門院庁の別当に補任されており、明らかに矛盾している。得子の兄弟を冷遇したのは、待賢門院の兄弟を含む閑院流との関係(鳥羽院の母も閑院流出身)を反省した鳥羽院に外ならない。 
 『鳥取県史』には八月一三日条も掲載されていた。女院御願寺法金剛院御塔と経蔵の上棟があり、因幡守が参加していたからである。そこには「藤原通基」も登場し、県史は因幡守に藤原通基との注記を付けていた。長承三年二月二四日の除目で藤原公通が因幡守に補任されており、誤りである。通基はその除目で丹波守に遷任したと考えられる。一三日条には因幡国司の前に丹波国司が記されており、これが通基に外ならない。県史には国司の任免に関する一覧表も掲載されているのに、なぜこのようなミスをするのだろうか。なお、公通は故長実の娘聟になったこともあったが、結果としては通基の娘との間に嫡子実宗が誕生している。通基は女院庁別当の中心であり、公通は女院の同母兄西園寺通季の嫡子であったが、父通季が三九歳で死亡した時点で一二歳であった。得子の父長実にしても白河院近臣で、女御璋子とその子顕仁(崇德)親王の政所別当であった。そうした中で、公通が長実の聟となったのだろう。

洪水の影響と検地帳

 今年も各地で洪水が相次いでいるが、流路変更を伴うものではないようである。同一の村の検地帳をみているが、急に一筆毎の肩に付けられた字が少なくことがある。流路変更があれば当然、区画と字を一から付け直さなければならない。流路変更がなくても厚く土砂が堆積すれば、同様の変更が必要となってくる。洪水があっても区画がそのまま維持できれば、字の変更も少ないが、しばらくは生産力が低下する可能性がある。ということで、二つの検地帳を比べることで、この間に1)目だった洪水はなかった。2)洪水はあったが、区画、字の変更は少なかった。3)流路変更はなかったが、区画の変更があった。4)流路そのものが変わった。以上の四段階に分けることができるのではないか。
 ブログでは斐伊川の問題について、最初に寛永三年と正保四年の美談村と上鹿塚村の検地帳を比較し、両者の間に流路変更があったことを述べた。問題はその時期であるが、とりあえずは『雲陽誌』に寛永一六年(一六三九)に上鹿塚村の一宮明神が建立(再興)されたことと、正保二年(一六四七)に洪水で明神の社殿が顛倒し、古記神宝が悉く流出したことを材料とせざるを得ない。前者がいわゆる斐伊川が東流したとされていた洪水であるが、その時期は寛永一五年以前であろう。そこでは古記神宝は持ち出して事なきを得たが、正保二年の洪水は寛永の洪水より被害が甚大で、社殿から古記神宝を持ち出す余裕もなく流されたのであろう。前に述べたように、正保四年の両村の周辺の村々の検地帳ではここまでの被害は読み取れず、美談・上鹿塚付近で堤防が破れ、その上流と下流の村は大被害を免れたのだろう。
 以上、正保四年の検地帳から読み取れる内容について、以前の記事をバージョンアップしたが、さらには寛永三年の両村検地の背景も気になるところである。同年の検地帳が残っているのは二村とこれに隣接する西代村のみである。ただし、寛永三年の検地帳からは洪水が発生した影響などは読み取れない。

 

七月の近況から

 囲碁本因坊戦に続いて将棋棋聖戦が終了した。ともに予想通りの結果であった。当方は中味はわからないが、最近の成績から普通の予想を行っただけである。現在の藤井七段に八大タイトル戦で勝てるのは、好調時の豊島、渡辺両二冠ぐらいであろうか(絶好調時ならあと数人いるか)。両者とも強いが調子のムラないしは波がある。昨年二月一九日に朝日杯決勝で藤井七段が渡辺二冠と対戦した時点では好調だったが、それでも藤井七段が勝利していた。最年少記録達成には本人の才能・努力、ならびにAIによる研鑽が大きいが、一方ではそれを阻む覇者がいないことがある。谷川、羽生、渡辺とほぼ一〇年毎に覇者が登場したが、20代半ばには強い棋士はいても覇者はいない。大器晩成型の20代の覇者の登場、あるいは同世代のライバルの出現がまたれる。なお、藤井七段の二敗(一四勝)は棋聖戦の一敗と、王座戦二次予選決勝の大橋貴洸六段戦の一敗である。大橋六段はランキング一五位(六段としては破格)だが、今年は一〇勝二敗と好調で、藤井戦の勝利は驚くほどのことではなさそうである。今の藤井七段に勝利可能なのは、実力者か若手で好調な棋士である。
 囲碁は井山三冠が好調のため、芝野・一力両者も歯が立たない。芝野三冠誕生時は井山三冠は不調であった。今後の予想は難しいが、今年の内は井山一強が続くであろう。一力八段も碁聖戦でタイトルを獲得すれば、過去の加藤正夫九段、小林光一九段のようにひとかわむけるかもしれない。
 昨夜は東京都コロナのデータ入力で、訂正箇所が多かった。新規感染者こそ二四時間で新たに判明した数なので変わらないが、その他は次々と新たなデータが入り、過去に遡って更新されている。現時点では最多検査数は七月一三日の4712である。これに対して一二日は706でしかない。1週間では月曜日が最多で日曜日が最少という状況が続いている。これに対して報道で使用される検査数には曜日による特色はみられない。検査数と感染者のデータは〆切が異なるのでかならずしも連動していない。検査で陽性となった人の数と全体の検査者数(これは検査数とはズレがあることは前述のとおり)の割合が感染率で、一日ではなく一週間でみないと変化がわからないという考え方は正しいが、一方では日々の変化もみなければならない。七月では検査者数が872と最少(その後一二日が更新)であった五日が感染率10.6%と最高となったが、検査者数4084の一三日が3.9%と低かった。一四日に続いて一五日も上昇し、検査数3083で244陽性と感染率7.9%となった。ネットの情報によると東京都足立区がもっとも分析できるデータを公開しているとのこと。
 GO TO トラベルキャンペーン前倒しが発表されたのは七月一一日だったようだが、七月七日以降の感染率は明らかにそれまでより上昇しており(データが最少の五日を除けば5.2%が最高だったが、七日以降はデータが最多の一三日以外はすべて5.2%を越えている)。政府関係者がデータを無視して決定したものである。あいかわらず愚かな側近とその意見を判断できない無能な指導者である。側近は指導者よりある意味では月とすっぽんほど優秀であろうが、都合の良いデータを優先して考えるため、誤った立案をしてしまう。AIの登場により人間の認識の限界が露呈している。将棋では詰むか詰まないかにはなお課題があるようだが、その他でははるかに人間を凌駕している。限界を認識させられるのは良いことであり、正しく向き合っていけば良い。キャンペーンの方針の再変更は悪いことではないが、その変更は政府関係者がみずからの責任をのがれるためのもので論外である。
付記:よくわからないのが、医療機関による保険適用の検査数である。東京都は6月18日からこれを加えるようになり、後には5月7日まで遡って検査数に加えた。ただし、加えるようになって、明確に増えたとは思われない。現在でも神奈川県等は加えていない。日経のデータで最近になって検査数が急増したのが埼玉県で、7月14日の約2800であるが、埼玉県のサイトをみると7月16日の延べ検査数は前日比+948とあり、日ごとの差が大きい。5月前半の感染のピーク時の最多は2000弱である。

2020年7月15日 (水)

嘉禎四年、宝治元年の守護2

 一四番佐々木壱岐前司(泰綱)は嘉禎の近江入道(信綱、仁治三年没)の後継者で近江守護。一五番はすでに述べた。一六番名越尾張前司(時章)は嘉禎に欠落していた式部大夫殿(光時)の弟で筑後・肥後・越後・越中・大隅守護。木下氏は「名越朝時の守護国が従来の想定より少ない」としたが、どういう意味であろうか。嘉禎の朝時守護国は越後・越中・能登・大隅の4ヵ国であるが、筑後・肥後は嫡男光時が守護であった。光時失脚後はどうかというと、能登こそ他の一門に交代しているが、越中・越後・大隅と筑後・肥後は名越氏がその後も守護であった。佐渡については、佐藤氏が貞応二年に朝時が北陸道の守護であったとの所伝に佐渡が含まれるかは疑問であるとしたが、伊藤氏が含まれるとしていた。実際は前述のように嘉禎、宝治とも後藤基綱が守護であった。ただし、北条氏一門の中で名越氏のみ大番頭を務めてさせられている点は注目される。
 一七番秋田城介(義景)は嘉禎の城介と同一で上野守護。一八番大友豊前前司(親秀)跡は嘉禎の豊後大炊助入道の後継者で豊後守護。一九番の足立左馬頭入道は足利の誤りで、嘉禎の足利左馬頭殿(義氏)ど同一で美作守護。二〇番天野和泉前司(政景)は嘉禎の和泉前司の後継者で長門守護。二一番信濃民部大夫入道(行盛)は行義の従兄弟で父行光を継承して政所執事となった。行義同様、宝治合戦の没落者の守護国を与えられたと思われるが、具体名は不明。二二番宇都宮下野前司(泰綱)は嘉禎の宇都宮下野守と同一で伊予守護。二三番甲斐前司(泰秀)は嘉禎の長井左衛門大夫で備後・出羽守護。建長五年一二月に泰秀が四三歳で死亡すると備後守護は泰秀の弟泰重が継承。泰重は建長四年までには藤原親実の後任として周防守護となり、文永元年四月には備後とともに備前守護を兼ねていた。宝治元年新日吉社小五月会の流鏑馬七番を長井左衛門大夫泰重が務めており、当時の六波羅では北方探題駿河守重時に次ぐNo2の地位にあった。後鳥羽院の子雅成親王(建長七年二月没)が配流された但馬国朝倉庄地頭として、その管理にもあたっている。備前に配流された頼仁親王が没したのは文永元年五月であるが、備前守護に比定した葛西伯耆前司清親は、文永七年一二月没とされるが、『吾妻鏡』では宝治元年末の大番役頭が終見史料である。宝治二年以降の早い時期に泰重に交代した可能性が高い。
 以上、検討したが、大番頭としてみえるのはその時点の守護であるとの仮説は正しいと思われる。次々と守護が交代する国と、一族間で継承される国にはっきり分かれている。

嘉禎四年、宝治元年の守護1

 以前述べた嘉禎四年の守護について補足する。その分析の中心であった出雲・隠岐については既に補足した記事をアップしている。
 宝治元年一二月京都大番勤仕大番頭定(『吾妻鏡』)にみえる大番頭の多くは守護である可能性が高いと西田友広氏が述べている(「鎌倉時代の石見国守護について」)が、諸国御家人を率いて大番役を勤仕する守護の性格からして妥当な見解である。
 一番の小山大夫判官は嘉禎の下野入道(嘉禎四年三月三〇日に八四歳没)の後継者であり、下野・播磨・壱岐守護。二番の遠山前大蔵少輔と嘉禎の大蔵少輔は同一(景朝)で甲斐守護。三番島津大隅前司は嘉禎の豊後修理亮と同一(忠時)で薩摩守護。四番葛西伯耆前司は清親で、嘉禎の壱岐左衛門(時清)がその後の史料にみえないので,弟(前の記事では子としたが修正)時清の死により備前守護を継承したと思われる。備前国は後鳥羽院の子頼仁が配流されており、業務(六波羅中心に活動)を通じて隠岐守護であった佐々木泰清との関係が生まれ、泰清が清親の娘を妻とし、三男頼泰以下が誕生した。
 五番中条藤次左衛門尉(頼平)は嘉禎の出羽判官家平の子で尾張守護。六番隠岐出羽前司(二階堂行義)は嘉禎にはみえない。宝治元年六月の宝治合戦で守護交代が確実なのは、嘉禎の三浦義村(安房・讃岐)、佐原家連(紀伊)、千葉秀胤(上総・丹後)、毛利季光(飛騨)である。安房・讃岐は三浦・佐原氏一族で生き残った一五番三浦介(盛時)に与えられた。この内、紀伊守護家連は同国南部庄地頭でもあった。これが乱後は常陸入道行日(二階堂行久)に与えられている。行久は行義の二歳下の弟で父行村は嘉禎四年二月一六日に八四歳で没している。前述の小山朝政と生没年が同じである。行村没により行義が嘉禎四年に評定衆となり、翌暦仁二年には兄基行が、建長元年には行久が評定衆となっている。以上の点から、行義は紀伊守護であろう。
 七番上野大蔵権少輔は嘉禎の上野入道(結城朝光)の子朝広で加賀守護。八番千葉介は嘉禎の千葉介と同一(時胤)で下総・伊賀守護、九番宍戸壱岐前司は嘉禎の奥太郎左衛門(小田泰知、木下氏による)の従兄弟宍戸家周で常陸守護。嘉禎の「宍戸左衛門 参河」は末尾の守護不設置の参河と矛盾しており、誤りであろう。一〇番足立左衛門(元春)跡については守護国は不明である。一一番後藤佐渡前司は嘉禎の玄蕃頭と同一(基綱)で越前守護。一二番伊東大和前司は嘉禎と同一(祐時)で石見守護。
 一三番佐々木隠岐前司は嘉禎の隠岐次郎入道と同様に悩ましい。『吾妻鏡』延応元年一二月二九日条に「佐々木隠岐入道」、建長二年一二月二九日条に「佐々木隠岐前司義清」とみえることと、泰清は隠岐守任官歴がないので、佐々木義清となるが、高岡氏系図によると仁治三年(一二四二)に八二歳で死亡している。宝治元年五月九日の新日吉社小五月会で流鏑馬四番を務めている「佐々木隠岐次郎左衛門尉泰清」であろう。泰清の生年は不明だが、兄政義が承元二年(一二〇八)年生で八三歳没であるので、宝治元年には三〇歳代半ば過ぎであろう。政義は義清が四八歳時の子で、泰清とともに晩年の子であるが、三人とも八〇歳を越えており長寿である。嘉禎を含めて混乱が生じた原因は実際には子政義と泰清が出雲守護、隠岐守護の実務を行いながらも、父義清がなお生存していたからであろう。宝治二年四月二五日に泰清が田所義綱を隠岐国船所に補任しており、父と同様に隠岐守に補任されたとの説もありそうであるが、同年一〇月二七日に行われた杵築大社遷宮時の流鏑馬を務めた泰清は「守護所隠岐二郎左衛門尉」であり、父義清が隠岐守を務めたことで得た国衙支配権を継承して船所補任をしたとすべきである。

 

2020年7月13日 (月)

マスメディアの役割3

 東京都のデータについて述べたが、マスメディアで報道に使用されている「検査実施件数」は7月9日までで更新がストップしている。7月8日分はその後のデータが追加されたのか3500となり、9日が3352である(13日朝の時点。最終更新は10日19時30分。多くのデータは12日20時15分更新である)。全国の状況はどうであろうかと検索すると日本経済新聞の「チャートで見る日本の感染状況 新型コロナウィルス」に到った。冒頭に「東京都の感染データ」があるのは、現在の焦点であるからだろう。新規感染者数、経路不明者の比率、直近1週間の年代別感染者が掲載され、簡単な解説文が付されている。20代47%、30代24%で、10代と70代以上の感染者は少ない。
 次いで全国の新規感染者が都道府県毎に横棒グラフで掲載されている。20人以上が赤色だが、首都圏4都道府県と大阪が11日分で該当している。全国では372人だが、すでに報道された13日分は400を超えた。続いて都道府県毎のデータを選んで表示させ確認ができるが、その次にある全国のデータを先にみると、全国のPCR検査実施数が縦棒グラフで表示されている。5月8日が13000超で最多で、9日と14日が一万人を超えたが、それ以降は減少傾向で大半が6000人以下である。6月に入り微増となり、7月からは増加率が大きくなった。東京都で述べたのと同様、曜日によって少ない日がある。政府は30000人を実現するといったが、遠く及ばない状況である。そこまで増やす必要はなく、特定の関係者の検査を増やせばよいというのだろうか。
 これに関連して、東京都新宿区は感染者に一人10万円を給付する制度を導入し、これが特定の関係者の検査数を増加させている模様。陽性患者数の累計(12日時点で都全体で7927人)でしか確認できないが、新宿区(こちらは11日までの累計)が1101人と多い。もう一つ注目されている池袋のある豊島区は301人と思ったより少ない。二番目は世田谷の614人である。次いで、港、中野、練馬、杉並と続き、豊島区は7番目である。以上は東京都のデータサイトからの引用である。
 日経のサイトで「東京都」のデータを表示させると、新規感染者数、感染者・回復者・死者数、PCR検査人数、人口10万人あたりの感染状況が確認できる。PCR検査実施数ではなく検査を受けた人数を掲載しており、7月8日の初の3000超え(目視なのでこのレベルで表記)から9日は2500人台、10日は1200人台と減少している。ただし、東京都の最新データでは8日3301、9日2770、10日1367である。このデータは3~4日間は後で判明したものが追加される傾向にあり、日経は追加分に基づく修正をしていないと思われる。これに対して新規感染者数は、その日の〆切時間までに感染が報告された数なので、変更されることはない。10日の新規感染者は206と減少したが、10日分の検査で陽性と判明した人の数は60人である。前者の最多は報道のように9日の243だが、報道されていない後者では8日分の217が最多で、2番目は7日分の205で、9日分は168で3番目である(ただし9日と10日分はなお追加がある可能性ある。7日分と8日分については追加はあっても微増であろう)。感染状況は直近1週間と現在(一日分)の両方が掲載され、前者が7.7、後者は9.4である。
 11日の感染者数32で二番目の神奈川を表示すると、ここ最近の検査数が最多なのは7日の250人超で、掲載されているのは130程度の9日分まで。埼玉はこれも7日の約1800が最多で10日は約600である。これに対して千葉県は9日に久しぶりに感染者数が20人を超えたためか10日にほぼ過去最多タイの380台となった。9日は200超であった。首都圏以外で12日には感染者32の大阪をみると、7日の約1400が検査人数の最多である。緊急事態宣言時の最多は約800だった。9日は入力ミスであろうがマイナス600台となっている。そこで大阪府のサイトで確認すると643であった。驚くことには7日の検査人数は1400ではなく、700台(最新日以外は棒グラフからの目視)であった。8日も微減の700台で、9日が643である。10日については未掲載であるが、日経では700台となっており、これも入力ミスであろう。チェックをしていないのだろうか。再確認すると、大阪府の検査数は5月14日の793件が最多で、5月9日の764が二番目で、7月8日の752が三番目、9日の745が4番目であった(当該棒グラフにマウスを持って行くと日付と数が表示された。もしやと思い日経サイトも試したが表示されなかった)。
 以上、全国の検査状況を知りたいと思い、検索して前掲のサイトを確認したが、30000という検査目標はどうなったのか(最多で13000)というのが最大の疑問である。検査体制・能力の問題なのか、特定の関係者の検査をすれば良いと思っているためなかの不明だが、検査人数を増やして実態把握をしないと、政府や都道府県の発表の信頼性は低くなる。この点もマスメディアがそうした事実を国民に知らせるとともに、厳しく批判すべきではないか。

2020年7月12日 (日)

保延七年の大社顛倒をめぐって

 大社の「顛倒」については、造営のため従来の本殿を倒したものであるとの見解が示されたが、この保延七年六月七日の顛倒は、突然のもので、現在ある施設にとりあえず遷した上で、仮殿造営が行われた。問題は顛倒の原因である。建物の状態については確認され、造営事業の準備は進んでいたはずである。出雲守藤原光隆の父清隆は崇德天皇の御願寺成勝寺造営の行事を務めており、十分な経験があった。そこで、地震、大風、豪雨など自然環境の影響が考えられる。大社顛倒、一四日後には法成寺新堂(『百錬抄』は大社顛倒とともに五月とする)が故なく崩れている。そして、七月一〇日には、今年が辛酉革命の年であるかどうかが議論され、その日の内に永治に改元されている。すでに半年が経過しており、様々な災害などの発生から疑問が出されたのであろう。さまざまな案が出され、それを検討して改元が行われる普通の改元とは異なっている。
 とはいえ、改元の効果はあまりなかったようで、『百錬抄』には八月二日条に晴れる事が無く雨が降り続き、洪水が比類無しと書かれ、二五日には天下の諸神の位階を一楷上げている。災害は特定の地域ではなく、かなりの広がりを持ったものであったと考えられる。ちなみに、大社が顛倒した日は現在のグレオリウス暦に換算すると一一四一年七月一九日であり、今でいう梅雨末期の集中豪雨の時期である。なお、この年の一二月末に崇德天皇が退位し、近衛天皇が即位している。
 この時期は公家の日記の空白時期で、『本朝世紀』も康和六年(一一〇四)から永治元年(一一四一)まで欠巻である。そした中、美濃国の東大寺領茜部庄と仁和寺大教院領市橋庄の間で境界をめぐる対立が起きている。この問題の背景には、庄民による出作の問題があったが、それが顕在化したのは、永治元年秋(七月~九月)の大洪水で、境界であった河の流路が変わったことであった。また、備前国香登庄でも、洪水で庄内四〇余町が池成田となったが、それが河を挟んだ公領の高堤の築造が原因であったとして、年貢納入のため公領の一部を庄園に割譲することを求め、靭負・服部両郷内便宜作田廿町八段が便補されている。高堤築造の原因も洪水で、広範囲の作田が損耗したことに対するものであった。それ同時に用水のため新たな新堀を掘ったところ、今度は洪水時に傍らの香登庄に水が溢れ、河成田となった。河成田に対する検注が行われたのが康治二年(一一四三)であるので、それ以前に少なくとも二度の洪水があったことになる。
 香登庄は鳥羽院領備前国香登勅使が得子との間に生まれた暲子内親王(後の八条院)に譲られ、永治元年八月四日に太政官符で不輸権を認められており。二度目の洪水は同年秋以降のものであった可能性が高い。またその近い時期に一度目の洪水で公領が損耗する事態となり、高堤の築造がなされた。
 話を戻すと、保延七年(七月一〇日に永治改元)六月七日の大社顛倒の直接の原因を明確にはできなかったが、この時期には、急な改元が行われるほど自然災害が相次いでいた。辛酉革命が理由であるならば、もっと早い時期に行ったはずであり、候補の検討もそこそこに行った異例の改元の口実に使われたものであろう。なお、美濃国と備前国の庄園をめぐる問題についてはなお不明確な点がある。特に茜部庄と市橋庄の位置関係が、友河を挟んで西が茜部、東が市橋と明記されているにもかかわらず、地図上で両者の位置関係を比定できず、今後の課題とする。備前国香登庄については中野栄夫氏の検討(『荘園の歴史地理的世界』)がある、

2020年7月10日 (金)

明応六年七月三日日置政継譲状について

 日御崎神社、とりわけ中世後期の同社の問題については、近年は考えたことがなかったが、斐伊川流路の問題で、久しぶりにこの譲状をみた。政継とは大社国造の協力を得て外戚田儀又法師との日御崎社検校をめぐる争いに勝利した愛寿丸と同一人物で、その後は守護京極氏と結んで大社からの独立を達成した。その譲状は①長禄二年と②明応六年の二通が残っており、県の古文書調査を担当して目録を作成した村田正志氏が、②が正しく①は偽文書としたのに対して、井上寛司氏はともに偽文書ではあるが、①には又七郎政次から又次郎政継への、②は又次郎政継から政忠への譲与が反映されているものと評価された。これに対して「中世日御崎車に関する基礎的考察」(『山陰史談』24)の中で、①は他の史料と合致し、②は明らかな偽文書とした。
 その前提として、井上氏が想定された「又七郎正次」から「又次郎政継」への譲与は誤りで、愛寿丸=又七郎政継が子又次郎某に検校を譲ったが、又次郎が早世したため、その後、政継が孫政忠に譲ったとした上で、②は記された所領名からして、後世作成された偽文書だとした。
 ②では所領として最初に、神門郡薗内外、芦渡郷内一〇町、荻原郷内田壱町、屋敷壱所を挙げている。荻原郷は一五世紀後半に京極氏家臣である牛尾氏から寄進され、次いで荻原郷の新領主三沢氏もこれを継続安堵したもので、その由緒は明確である。これに対して薗内外と芦渡郷に関係するのが、何度も分析した③正応元年一一月二一日将軍家政所下文(小野文書)である。戦国期以降に日御崎社が入手し、②を作成した際に、その裏付けとなるものとして③を利用した。その際に都合の良いように、改変した。下文の宛所である「又次郎」と政継の子「又次郎」が一致するのは偶然であるが、それが改変を行わせた理由かもしれない。それゆえ、当時は所領の前に郡名がなかったのを二行分かち書きにして強引に「神門郡薗内外」と入れた。続く部分もこれを「蘆渡」郷に改変した。これまでこの「蘆渡」にひきづられ、これを守護佐々木氏庶子の古志氏に比定したことがあったが、見当違いであった。現時点では出雲守護佐々木頼泰の嫡子貞清が在京奉公の労とねぎらいとして与えられた文書が本来の姿であったと考える。そうすると「神門郡」が記入された理由も理解できる。ただし、本来、記されていた所領名については明らかではない。

マスメディアの役割2

 九日のワイドショーで、八日の感染者数が最多の224件であるとともに、検査件数がはじめて3000を超えたことも報道されたそうだ。東京都のサイトを見ると、「その他 参考指標」の中に「検査実施件数」があり、8日3330件と表示されている。
 注記は以下の通り。1)検体採取日を基準とする。ただし、一部検査結果判明日に基づくものを含む 。2)同一の対象者について複数の検体を検査する場合がある 。3)5月13日以降は、PCR検査に加え、抗原検査の件数を含む 。 4)速報値として公開するものであり、後日確定データとして修正される場合がある。
 非常にわかりにくい。昨日アップした記事も後で数値を訂正した。この検査件数と「検査の陽性率」で使用されている「検査者数(陽性、陰性)」と数字が違うのは主に2)のためであろう。わかりやすいのは後者であるが、なぜか前者が報道されている。東京などに宣言が出された四月七日は前者934、後者271と3倍以上の差がある。七月八日でも3330に対して2501である。
 いずれの数値も合計をしないと活用できるデータとはならず、極めて不親切である。「実施件数」にしても「テーブルを表示」で示される数字(健康安全研究センター実施数、医療機関等実施数)を合計しないといけない。とりあえず、数字を手入力(コピーできないので)して計算すると、七月六日が最多で3734、七日が3097で、八日が初めてだというのは嘘で、七月三日の3159が初めてである。医療機関等実施数をみると、金曜日の数値が常に大変少ない。前後の日の15%(土曜比)から30%(木曜比)である。直近の六日も748、六月二八日が419、二一日が314である。
 感染者数との対比で利用するなら、実施件数ではなく、検査者数でなければならない。検査者数でいうと、八日は陽性185、陰性2316の計2501で、一日の陽性率は7.4%、七日は196、2543、計2739、陽性率7.2%、検査者数が少ない五日の金曜日が91、765、計856、陽性率10.6%であるが、これらはこちらが表計算ソフトに手入力して計算してはじめてわかるものである。緊急事態宣言との関係でいうと、全国に出された四月一六日は、136、510、26.7%、以前の一〇日が143、362、39.5%、一一日が159、503、31.6%である。
 東京都の公開データそのものがわかりにくいのが問題だが、マスメディアは以上の作業を前提として、正確なデータを出すよう要求すべきである。昨日記した感染率は公開されたもので、過去七日間の平均であるが、一日毎の平均(手入力データで計算)と併せて利用しないと、ごまかされてしまう(一〇日にさらに更新したが、東京都のデータ更新は昨日も19時30分だった。オリンピック延期以前と全く同じ状況に陥ってしまっている。これは予想できたことで、都知事は交代させるべきであった)。

 

2020年7月 9日 (木)

本因坊戦と棋聖戦

 本日は本因坊戦2日目と棋聖戦である。16時過ぎの状況は、棋聖戦は形勢不明であるが、考慮時間は渡辺棋聖がかなり多く残している。本因坊戦は井山本因坊の優勢が続いており、第4局のような逆転の可能性はあまりないなかで、虎丸名人の粘りに期待されている。結果は神のみぞ知るである(防衛)。
 将棋棋士のレーティングが公開されているが、過去(公開されているのは二〇〇八年以降)に2000点を超えたのは羽生、渡辺の二人のみである。現在のトップは藤井7段で1989点と三人目の2000点に近づいている。2位は豊島名人で1959点で、自身としては過去最高である。3位渡辺棋聖は1930点で、昨年一二月一三日には史上最高の2016点であった。羽生9段は二〇一四年七月の2003点だが、掲載されていない二〇〇七年以前にはもっと高い点だったことがあろう。現在、藤井7段との対戦で勝率が50%を超えるのは豊島名人のみであろう(対戦成績4戦全勝)。17時前には渡辺棋聖59%となり、残り113分、藤井7段は残り8分。最年少タイトル獲得は本日でないにしても時間の問題であろう(内容はわからないが、渡辺棋聖の対藤井研究の成果の一手が出、それ以降、藤井7段の考慮時間が増えたもよう。)。
   七月一八日から碁聖戦五番勝負が始まる。日本のレーティング(七月=六月末までの成績による)では波根碁聖が12位、一力挑戦者が1位(一年間の国内棋戦45勝9敗)であるが、今年の状況をみると井山三冠(19勝4敗)が頭一つリードし、一力・芝野の順で続き、さらに頭一つ離れて許8段という状況であろうか。一力8段は直近では名人戦リーグで波根9段に勝利し、6勝1敗としたが、なんと言っても井山三冠が七連勝で、残すは張9段戦のみで、芝野名人に挑戦する可能性が高い。現時点では本因坊戦の成績が井山・芝野両者の力関係を示している。一力8段は棋聖戦Sリーグでは第2戦で高尾9段に敗れている。番狂わせではないが、痛い星を落とし、挑戦者争いはやや混沌としてきた。

マスメディアの役割1

 昨日八日の東京都のコロナ感染者数が224人と過去最多となったが、相変わらず無責任な都知事と経済再生相の無意味なコメント(いいわけ)が垂れ流されている。マスメディアがそこにメスを入れないので、このような状況となっている。与党の誰もが無能な犯罪者を辞めさせる役割をしない(鈴を付けない)のと同じである。東京都の公開しているデータをきちんと見れば(分析までしなくとも)、ファクトであることはすぐわかる。
 サイトの一番上にある「新規患者に関する報告件数の推移」というのが、ニュースで伝えられている数字である。棒グラフで表示されているが、「テーブルを表示」をクリックすれば一月二四日以降の数字を確認できる。問題はPCR検査数であるが、サイトの一番下にある「PCR検査の陽性率」で確認出来る。患者数とは集計方法や〆切が異なるため、数字のズレが生じているが、傾向は正確につかむことができる。
 感染者数がこれまで最多であったのは四月一七日の206であるが、検査数と陽性者数のデータをみると四月一一日が503人中159人で最高である。一七日は329人中84人で、一六日が510人中136人である。七月八日分は2501人中185人で、七日が2739人中196人が陽性である。検査数の最多は六日の3063人でうち122人が陽性であった。検査数が2000人をはじめて超えたのは六月一二日の2226人で57人が陽性だった。以下検査数2000人以上の日のデータを示すと、一五日は2001人中24人、一九日は2188人中78人、二二日は2091人中49人、二四日は2095人中55人、二五日は2013人中64人、二六日は2371人中75人、二九日が2446人中97人、三〇日が2433人中81人、七月に入って一日が2522人中132人、二日が2516人中132人、三日は2979人中139人、六日は前記の通り、七日は2739人中196人で、八日分は2501人中185人である。
 感染者数に戻ると、報道のように、七月二日が107人と百人を超え、八日が75人と下がったが、九日(サイトでは未掲載)が224人であった。検査数が多いのでこの数字だと言うが、六月中旬からは検査数2000人以上の日は珍しくなくなっている。そうした中、陽性率が上昇している。政府や東京都の当初の説明では、検査可能数に限度があるため、クラスター関係者や濃厚接触者中心に検査をしてきたというものであった。表現を変えれば、陽性になる可能性の高い人は検査してきたというものである。四月中旬の陽性率は30%前後である。それが五月中旬には1%を切っていたのが、六月一九日以降は2%台、二六日以降は3%台、七月一日以降は4%台、五日以降は5%台と上昇している。データが掲載されているのは七日までで、5.8%である。
 こうした点を踏まえれば、都知事と経済再生相にどんどん質問をしてその嘘を白状させることは容易であるにもかかわらず、マスメディアが責任を果たしていない。

2020年7月 7日 (火)

源義親の乱と大社造営

 長治二年(一一〇五)正月、大江匡房はわずか知行一年の備後国を返上し、出雲国を与えられた。どのような理由で実現したのだろうか。
 造営旧記をみると、六月七日には杵築社并豊山別宮、国内中社一一社の破損を報告し、翌年二月三日には官使を派遣して損色を調査することが政府により決定されている。治暦三年の大社造営から三八年が経過しており、新たな造営と遷宮の必要性は高まっていた。政府の対応は橘俊孝が偽りの報告(本殿が顛倒し、託宣があった)を出した時と緊急度の違いこそあれ同じである。大江匡房が出雲国への変更を求めた際の理由として大社造営も含まれていた可能性が高い。匡房は大宰権帥も務め、そのもとには豊かな実務経験を持つ人々がいた。第一弾として政府への報告がなされ、官使の派遣が決まったのは予定通りであった。
 この後の事について、後任の藤原顕頼は、その後指したる裁定がなく三箇年と述べているが、事実とは異なっている。家保の時は事態は切迫して居らず、造営に着手するか否かを決定するための調査であった。そして調査のための官使派遣決定から二年もたたない時期に家保は延任されることなく、出雲守を退任している。その原因となったのが隠岐に配流されていた源義親が配所を出て出雲国に渡り、目代と郎党を殺害したという報告であった。流人義親については嘉承二年六月二日にも話題となっているが、その後は音沙汰なしで一二月一九日になって、追討使因幡守平正盛が出雲国に下向したことが奉じられている。少なくとも六月二日の時点では切迫した状況にはなかった。
 対馬守源義親の鎮西での行動に対して追討が決定されたのは康和三年(一一〇一)七月五日であった。ところが、翌四年二月には召し取るために派遣された父義家の郎従が義親に与同したことが報じられている。最終的に義親とその関係者を捕らえ、隠岐への配流が決まったのは一二月二八日だった。嘉承二年六月の時点では隠岐の配所からの脱出や目代の殺害には至っておらず、処分の解除などが議題ではなかったが。その後の記述がないのは処分の変更がなかったからであろう。解除反対の中心人物として、義親の行為を摘発し、且つ大宰権帥藤原季仲の流罪により、急遽二度目の権帥となった匡房が想定できる。ともあれ、目代殺害の報告により追討使正盛の派遣が決まったもので、殺害は決定の一、二ヶ月前に発生したものであろう。
 この目代の殺害が、大江匡房-藤原家保体制下での大社造営を不可能とし、これに替わったのが藤原顕隆-顕頼父子であった。

 

2020年7月 6日 (月)

藤原顕輔について

 これまで藤原重家の父として何度が言及してきたが、一部はWikipediaに依存した部分もあり、きちんと史料で確認する。
 顕輔は白河院近臣顕季の子で、長実、家保、顕輔は同母(藤原経平の二女)兄弟である。経平の娘睦子は閑院流藤原実季との間に公実(璋子の父)や苡子(鳥羽の母)を産んでおり、永久五年(一一一七)一一月に璋子が鳥羽天皇に入内して女御となると、三兄弟すべてがその別当に起用され、翌年に中宮となると顕輔の子顕時が中宮少進に補任されている。ただし、一五才年上の長実と一〇才年上の家保ほどには注目されていない。
 その経歴をみると、康和二年(一一〇〇)正月に一一才で白河院判官代に補任され、同月中に蔵人になるとともに叙爵している。従五位上、正五位下に叙された後の康和六年正月に一五才で後白河院分国越後の国守に補任されている。天仁二年(一一〇九)一〇月には院近臣藤原敦兼と相博して加賀守となっている。二〇才であり、父顕季が知行国主であった可能性が高い。保安三年正月に鳥羽天皇への昇殿を認められたが、その直後に崇德天皇が即位すると鳥羽院庁別当となり、七月には崇德への昇殿を認められた。九月に父顕季の死により喪に服したが、間もなく復任した。
 問題なのが大治二年一月に「得替し昇殿を止められた」ことだが、何を得替したかは明記されていない。確認すると、元永元年(一一一八)一二月末に德大寺実能と相博して美作守に遷任している。二九才であり独立した国守であろうが、相博した相手の実能は兄西園寺通季が知行国主であった。顕輔は保安三年(一一二二)末に重任し、大治元年末に美作守は藤原顕広に交替している。養父顕頼が知行国主であった。大治二年(一一二七)正月に白河院の勘気を蒙り昇殿を止められたことは和歌のサイト「やまとうた」の顕輔の項にも記述があるが、『中右記』の当該月の記事には関係する記述はなかった。
 顕輔の子には一五才時に生まれた清輔がいたが、関係は微妙であったとされ、三八才時の子重家が出世していく。その間にいた前出の顕時のその後は不明である。ともあれ、顕輔は前美作守となり、冷遇されたことは確実である。大治四年七月に白河院が死亡し、翌年二月に忠通の娘聖子が崇德天皇の中宮に立后されると、中宮亮に補任され、八月には崇德天皇への昇殿を許されたとするのは『公卿補任』の記述であるが、それ以前に大治四年一一月三日鳥羽院庁下文の署判者としてみえる。前美作守であるが、受領最上位の伊予守藤原基隆の次に署判している。但馬守藤原敦兼や讃岐守藤原清隆より上位にあり、同年四月に参議となった長実の後だが、内蔵頭兼播磨守藤原家保よりは上位である。大治六年二月に近江守に補任されたが、保延元年末に辞して八才の子重家を周防守にした。保延二年二月一一日鳥羽院庁牒でも、「中宮亮」として署判し、家保とその子家成の後であるが、敦兼、清隆並びに大膳大夫兼伊予守藤原忠隆(基隆嫡子)、中務大輔兼美作守平忠盛よりは上位にある。鳥羽院政の開始とともに政界に復帰したとすべきであろう。崇德天皇との関係は良好で、保延三年(一一三七)一〇月には従三位(非参議)に叙され公卿となっている。
 保延四年には中宮御塔壇築造を行事として行い、子である周防守重家の重任功として認められている(興福寺別当次第巻之二)。歌人として知られ、『久安百首』など崇德天皇の歌会に参加し、譲位後の天養元年(一一四四)には勅撰和歌集撰進を命じられ、仁平元年(一一五一)には『詞花和歌集』を完成している。久安四年七月には法成寺塔供養に際し、皇太后宮聖子御給(一本には忠通北政所給)として正三位に叙せられている。保元の乱の前年、久寿二年(一一五五)五月六日に出家し、翌日に六七才で死亡している。
 長兄長実の娘得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになると、鳥羽院(通説では崇德天皇が行ったとするが誤り)はその兄弟の官職を一時停止したり、財産を没収したが、顕輔は白河院末期に失脚していたこともあって、同様の処分を受けることなく、逆に政界に復帰が可能となった。

 

2020年7月 4日 (土)

藤原雅教と顕長2

 保元二年一〇月には従四位上に叙せられているが、内裏造営で東廊を担当した藤原隆能から譲られたものであった。隆能は清隆の子であるが、久寿元年八月には鳥羽金剛心院供養の勧賞(扉絵賞)で正五位下に叙せられ、『源氏物語絵巻』の作者とも言われるように絵画の名手であった。清隆の嫡子光隆が生まれた大治二年に非蔵人から蔵人に補任されており、光隆より年上であった。清隆は一六才で、光隆は七才で蔵人に補任されている。
 隆能は久寿二年一二月に三河守に補任されていた。隆能と顕長の関係は、顕長の姉妹が清隆の室であったぐらいである。ただし、その女性は後に顕隆の異母弟朝隆の室となり、嫡子朝方(1135年生)を産んでいることからすると、顕頼の同母妹で、顕長の異母姉である可能性が大きい。隆能と顕頼の同母弟顕能が共通の「能」を名に持つので、隆能の母は顕隆の娘であろうか。一方で顕長は異母兄顕能の子顕方を猶子とし、保元二年一〇月二七日に木工頭に補任されると、兵部大輔を皇后宮(呈子)権大進顕方に譲っている。その時点で清隆の子定隆が皇后宮亮であった。
 顕長は仁平二年一二月三〇日には駿河守を辞して忠弘(『山槐記』、『公卿補任』による、『兵範記』では「忠広」)を任じているが、その関係は不明である。時期的に該当するのは藤原北家隠岐氏の致康の子忠広であろう。雅教の父家政の母は二条関白家(師通)女房であり、師通の子家政を産んだが、その後、師通の母源麗子の異母弟師忠の室となり師長を産んでいる。家政誕生の二年前に師通と室藤原全子との間に忠実が生まれているが、その後、師通は頼通弟教通の子信長が養女とした信子を室とし、全子などそれまで師通の室であった女性は排除された形となった。師通と信子の間に子は生まれず、三八才で師通が急死すると全子の子忠実が後継者となった。忠実は報復として信子を拒否したとされる。家政も祖父師実のもとで育てられたとされる。なお雅教の同母姉であろう家子は藤原清隆との間に光隆を産んでいる。顕隆は外祖父という形で光隆とつながっている。
 以上、雅教と顕長について検討する中で、顕頼の知行国の事例に、越中(顕長)、遠江(雅教)、三河(顕長)、加賀(雅教)を付け加えることができた。五味氏以降の知行国研究がいかに低調であったかを示すものである。当該期の政治史を研究する上で、知行国の分析は必要不可欠なもので、これを欠いたままの分析は再検討が必要である。
付記:当初は雅教のみで記事をアップしたが、顕長を加えて「1」「2」に分けた。雅教は顕隆の娘の子、顕長は顕隆の晩年の子である。

藤原雅教と顕長1

 『平安遺文』第六巻に確認したい文書があったのでPDF版で最初の頁を見ると、二四四七号として永治元年八月四日国司庁宣が掲載されていた。続く二四四八号は崇德天皇綸旨案(正しくは写)とある。そこには藤原雅教が進めた免除庁宣を遣わしたことが醍醐寺の大僧正御房に伝えられていた。同日付で「永治元年」の付年号が付されていた。写なので発給者が付けたのか、醍醐寺側が付けたのかは不明である。綸旨の奏者は右近権中将教長である。藤原忠教(中宮[聖子]大夫)の子で、保元の乱では公卿で崇德院のもとに参上した数少ない人物で、その背景には崇德院の子重仁親王の母である兵衛佐局を養女としていた。乱により解官・配流されるが、後に帰京を許され、復任はしなかったが、文化人として活動し、蔵人頭藤原光能に崇德院除霊の施設の設置を働きかけた。
 両方とも出典は醍醐雑事記十三とあり、雅教が進めた庁宣が二四四七号であろうと思ったら、遺文では文書名は「越前国司庁宣案」であった。そこで確認すると、雅教はその当時、越前ではなく加賀国守であった。税が免除された醍醐寺領得蔵庄を確認すると、やはり加賀国の庄園であった。同時期の越前守は藤原家保の嫡子顕保である。その同母(崇德乳母宗子)弟が鳥羽院の寵臣家成であるが、保延元年五月に家保が顕保に修理大夫を譲ろうとしたことに反対し、これを阻止したことが知られている。雅教の経歴を確認すると、保延二年四月七日に民部〔権〕少輔に補任され、翌三年一二月一九日には遠江守から加賀守に遷任しており、庁宣の署判者「民部権少輔兼守藤原朝臣〈在判、雅教〉」と一致している。
 雅教は藤原家政の子であるが、三才の時に正三位参議である父が三六才で死亡したため、母の実家藤原顕隆のもとで育ったと思われる。「藤原顕隆とその子達」で述べたように、雅教(1113年生)の母は顕隆の嫡子顕頼の同母姉妹であろう。雅教は一一才で白河院分国越後の国守に補任され、院の没後は一七才で遠江守に遷任し、次いで二五才で加賀守に遷任している。雅教の一才下で顕頼の養子となっていた顕広が一四才で国守となった美作から三二才で国守となった三河までは、五味文彦氏がいずれも顕頼の知行国であるとしている。雅教の遠江守と加賀国もまた顕頼の知行国であろう。雅教は天養二年四月一五日には駿河守に遷任しているが、在任中に顕頼が死亡してもその地位は継続しており、駿河守は独立して補任されたものであろう。
  顕頼の二四才年下の異母弟顕長は右兵衛佐から兵部大輔に進む一方で、紀伊守、越中守、三河守、遠江守、三河守を歴任し、次いで久寿二年一二月には嫡子長方を丹波守にするため三河守を辞している。翌保元元年一〇月には兵部大輔とともに中宮(忻子)亮を兼ねている。同時に前待賢門院長承三年御給で従四位下に叙せられている。忻子が待賢門院の甥德大寺公能の娘であることを含めて、待賢門院流に属するといってよい。五味氏のリストから漏れていたが、父顕隆の死亡後、顕長が国守であった越後国は兄顕頼の知行国となったと述べた。三河守(一回目)補任時(保延三年一二月)も二〇才であり、顕頼の知行国であった。五味氏はその次の遠江守のみ検討し、当時独立した力を保持しており、顕頼の知行国とはみなせないとしたが、それ以前は父顕隆と兄顕頼の知行国の国守であった。氏は九条民部卿が遠江国を知行していた時に河村庄が京都松尾社に寄せられたとの記事を検討して、寄進の時期は顕頼の養子顕広が国守であった保延三年一二月末から久安元年一二月末までとしたが、顕広の前任雅教が補任された大治四年一二月二五日以降、遠江国は顕頼の知行国であった。

 

2020年7月 3日 (金)

嘉承三年正月の伯耆守等人事2

 今回の受領人事では院近臣が優遇された。駿河守平為俊と甲斐守藤原師季には「候院人也」とあり、伯耆守藤原(橘)家光は院分国の国守で、信濃守大江広房は堀河院分国の国守に補任された。堀河天皇は前年度に死亡しているが、分国の設定はなお行われていた。これに対して伯耆守から尾張守に遷任した高階為遠については矛盾する二つのコメントが付されている。すなわち、為遠が二期八年伯耆守を務めたにもかかわらず、続けて尾張守に遷任したのは破格の例であると、前例を無視した優遇だと批判的に述べているにもかかわらず、一方では、「八年在任したが、春御祈物を献じたことで遷任した。是は院に候しない人で、まげてこの恩があったか」と述べている(増補史料大成本『中右記』)。伯耆守の退任は二期八年が経過したためであり、遷任先の尾張守も院近臣ないしは摂関家有力家司の指定席である恵まれた受領のポストである。実際に前任者は藤原為房であった。「院に近い人なので、まげて‥‥」とならなければ論理的に理解できない。そこで、『大日本史料』で当該部分を確認すると、「不」は「又」の誤りで、『大日本古記録』でも同様だった。やはり為遠も院近臣であったがための優遇であった。
 佐伯氏が「院近臣ではなかった伯耆守高階為遠を尾張国に移動させて、伯耆を白河院の分国とし」と記したのは、史料大成本の記述の矛盾に気づき史料を再確認する作業を欠いたままなされたもので、内容としても不適切である。院近臣藤原基隆が尾張の隣国三河よりも伯耆を望んだのには、当時の三河国が、一宮造営などの大事業があり、成功を行いにくい国であった等の問題があったのではないか。一方、因幡守藤原長隆が補任された事について宗忠は、天皇蔵人からの起用だと述べているのみである。前述の信濃守大江広房については、白河院の蔵人一臈であったが、本来優先すべき前頭道明朝臣が受領を希望する中、院蔵人を起用したのは会釈無き事か、と批判している。為房の四男長隆が因幡守に補任された際の年齢は二六歳で、その頃に叙爵したと考えられる。叙爵年齢が、長兄為隆が一八歳、二兄顕隆が一七歳、三兄重隆が二九歳であることからすると、長隆の叙爵は為隆、顕隆とは異なり、重隆と同様、普通である。結果として因幡国から材木が提供されたことについても、大社の仮殿遷宮が終わり、正殿造営が始まったが、必要な材木が出雲国で確保できなかったため、約一年半の間、事業が中断した結果である。仮殿遷宮は顕頼が出雲守に補任された天仁元年(嘉承三年から改元)一一月一九日に終了し、二七日から正殿造営のための材木採が開始されており、天仁二年三月五日に大社本殿が顛倒し、一一月一五日に仮殿遷宮が行われたとするのは誤りである。作業を中断しての前後策の検討の結果、今回は出雲国に近い因幡国から材木が提供されたが、史料をみる限りは、提供したのが因幡国のみであったかは不明である。
 なお、一五才の藤原顕頼の出雲守補任は、その父顕頼が春宮(宗仁=鳥羽)大進を務めたことに対する賞を顕頼に譲ったものである。顕頼の背後にいた知行国主は父顕隆ないしは為房であるとされることが多いが、顕隆である。この点は知行国制がファジーであることを示してもいる。祖父為房は嘉承三年には六〇才であり、その前年五月には出家・引退せんとする為房を長子為隆(顕隆の同母兄)が訪問し、思い留まらせている。
 以上、嘉承三年正月の伯耆守の交替とその人事の背景と意味をみたが、佐伯氏の評価は、正確性、妥当性を著しく欠いたものである。

嘉承三年正月の伯耆守等人事1

 嘉承三年(一一〇八)正月の除目は初めて白河院主導で行われ、受領人事では前例の無視が行われたことを中御門宗忠がその日記『中右記』で批判したことが知られている。この除目は前年度後半から問題となっていた源義親の乱が鎮圧された中で行われたが、一方では院近臣藤原基隆が、三河国を返上して新たに伯耆国を賜りたいとの解を九月に提出していた。八月二五日に白河院は、基隆が堀河天皇のために百体の不動尊像を造立した事を、子である三河守隆頼の重任功に認定していた。
 今回の人事で乱により動揺した山陰道諸国の体制再建のための人事が行われたとの佐伯徳哉氏の評価(『中世出雲と国家的支配』、2014)は妥当であろうか。白河院に、自らとの関係を強めつつあった正盛に乱鎮圧の勲功を得る機会を提供せんとの意図があったのは確かであろう。義親の乱の実態が通説とは異なり、鎮圧の難度が低かったことはすでに述べたとおりである。正盛は隠岐守在任中の承徳元年(一〇九七)に伊賀国鞆田村を寄進して白河院に接近したが、隠岐守は六位相当で叙爵前に就任できるポストである。
 正盛の若狭守見任が確認出来るのは康和三年(一一〇一)九月であるが、前任者敦兼が越後守に遷任したのは康和二年初と推定され、正盛の叙爵と若狭守補任もその頃であろう。ちなみに嫡子忠盛は一八歳で叙爵し、二二歳で伯耆守に補任されている。忠盛の名は姉の夫で源義家の嫡男でもある義忠にちなむものとされ、義忠が暗殺された天仁二年(一一〇九)三月までに元服していた(忠盛は一四歳)ことになる。以前、正盛の隠岐守退任と若狭守補任との間にタイムラグがあると述べたのは早計で、遷任であった可能性が大きい。若狭守の前任者であろう藤原敦兼、因幡守の前任者藤原隆時(清隆の父であり、出雲守忠清の異母兄)はともに院近臣である。正盛の人事が院近臣の人事の中に組み込まれていることがわかる。
 正盛の因幡守への補任は、隆時の因幡守としての終見が嘉承元年九月二日で、嘉承二年一二月三〇日以前に死亡していることと、若狭守の後任源俊親が同二年正月一六日には見任していることからすると、嘉承元年末であろう。正盛は義親追討の賞として因幡守在任一年余りで但馬守に遷任した。前任者は高階仲章で父為章が国主であったと思われるが、嘉承二年九月一〇日に二一歳で急死し、欠員となっていた。
 話を戻すと、嘉承三年正月に、高階為遠が伯耆守から尾張守に遷任したのに対して、伯耆守には藤原家光が補任された。それとともに伯耆国は院分国とされた。家光の父俊綱は藤原頼通の二男であったが、正室隆姫女王の嫉妬の強さから橘俊遠の養子に出された。家光は俊綱晩年の子であったこともあって、頼通の孫花山院家忠の養子となり、藤原姓に戻った。叙位・補任としては、嘉保二年(一〇九五)正月に白河院が寵愛した郁芳門院御給で従五位上に叙せられ、翌三年正月に女院の分国とされた淡路国の国守に補任されたが、女院は同年八月に二一歳で死亡し、白河を悲しませた。その後中務少輔から大輔へ進む一方で白河院判官代となり、嘉承二年正月には従四位上に叙せられている。この頃は院のもとを訪れた人々の取り次ぎも行っており、院近臣であった。永久二年(一一一四)一二月一八日までは伯耆守としての活動が確認出来るが、元永二年(一一一九)六月二八日の時点では「故伯耆守家光」とみえ、伯耆守在任中に死亡したと思われる。

« 2020年6月 | トップページ | 2020年8月 »

2021年5月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ