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2020年6月19日 (金)

藤原重頼と基房知行国2

 この時点では六条天皇の摂政基実が健在であったが、翌二年七月に死亡している。基実の弟基房は永万元年の時点で二二才で左大臣であったが、翌二年に摂関家氏長者となり、六条天皇の摂政となった。何が言いたいかというと、重頼の佐渡守の後任となった惟頼(重方の兄頼佐の子)の時点で佐渡は基房の知行国だとしたが、それは重頼が永万元年に補任された時点に遡るのではないかということである。
 惟頼の父頼佐は弟重方が蔵人に補任された翌年=康治二年(一一四三)一月に阿波守に補任されている。その時点では従五位下崇德院判官代であったが、散位であった。同年一二月八日には頼長が庶長子(後の師長。兼長より三ヶ月早く生まれたが、母の関係で兼長が嫡子とされた)の着袴を行い、家司を定めているが、その中に頼佐がみえる。久寿二年一〇月に女御となった忻子の家司が定められたが、その中に宮内少輔重方と前阿波守頼佐がみえる。次いで保元元年(一一五六)一〇月に忻子が中宮となった際に、中宮権大進重方(宮内少輔)とならんで権少進惟頼(頼佐子、元勾当)がみえる。
 永万二年七月に惟頼が基房知行国丹波の国守に補任されたのは前述の通りである。重頼が佐渡守に補任されたのはこの前年であった。次いで仁安二年(一一六七)二月に吉田経房が右衛門権佐に補任されたことをうけて慶賀のため各所を回っているが、上西門院(待賢門院娘、後白河の一才違いの同母姉)を訪問した際に、佐渡守重頼が申次を行っており、重頼が上西門院の別当であったことがわかる。これは祖父顕能以来の由緒に基づくものであるが(重頼が幕府成立後、頼朝との関係を持つのもこのため)、その一方で従兄弟惟頼と同様、松殿基房との関係も持ったのではないか。仁安三年九月には重頼の異母(源盛賢娘)弟で上西門院判官代であった能頼が高倉天皇の蔵人に補任されている。嘉応二年(一一七〇)四月には基実の嫡子基通が元服しているが、その家司の中に権右中弁重方がみえている。基通の母は藤原忠隆と藤原顕頼の娘の間に生まれており(平治の乱で没落した信頼の同母妹)、これが重方補任の背景であった。次いで承安元年(一一七一)一二月には摂政基房の北政所の家司に新たに五人が加えられているが、その奉行を行ったのが権右中弁重方であった。

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