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2020年6月18日 (木)

松殿基房の知行国4

 盛隆の同母弟有隆は保元三年(一一五八)八月に蔵人から左近将監に補任され、翌四年には従五位下有隆が筑前守に補任されている。父顕時が知行国主と考えられ、その知行国は甲斐国に併せて二ヵ国であった。盛隆は永万元年六月二七日に前任者藤原資頼(国主経宗)が伊予国へ遷任した跡の丹波守(国主顕時)となった。よって翌二年一月一〇日後白河院庁下文の署判者としてみえる「甲斐守藤原朝臣」は盛隆とは別人で、同じく顕時の知行国であった筑前から弟有隆が遷任したものである。次いで同二年八月二七日には顕時が権中納言を辞任して丹波守であった盛隆を木工頭に任じた。これにより顕時の知行国は甲斐一国となり、松殿基房の知行国となった丹波には藤原惟頼が国守に補任された。
 次いで仁安二年三月に顕時が死亡し、五月一九日には丹波国(基房)と相模国(成親)の相博がなされ、丹波守には成親の同母弟盛頼が相模守から遷任し、相模守には甲斐守有隆が遷任した。有隆は父顕時の死により、松殿基房の知行国の国守となった。有隆と摂関家の関係としては、父方の祖父長隆と母方の外祖父高階重仲がともに摂関家の有力家司であったことが考えられる。有隆の後任の相模守通定とは当ブロクで述べた源定綱の父で『尊卑分脈』には「従五下相模守」との尻付がある。その子の中で定綱が九条家との関係を持ったのに対して、康宗は近衛家との関係を持っていた。そして有隆が再び相模守に復帰しているが、これも知行国主が基房と共通であったゆえの人事であった。兄基実の急死により摂関家の当主となった基房は父忠通の家司だけでなく、新たな人材の獲得も必要だった。それが惟頼であり、有隆であった。大宰府が基房の知行国となり藤原重家が大弐に補任されたのが承安元年一二月八日であり、有隆退任後の相模守として確認できるのは安元元年八月に見任している平業房である。基房の知行国が相模国から大宰府に遷ったことになる。
 異母兄行隆、盛方、同母兄盛隆に続いて有隆も永万二年(一一六六)一月一〇日の後白河院庁下文の署判者=院司としてみえたが、有隆はこの一回のみである。仁安三年七月一〇日に八月四日の高倉天皇の朝覲行幸の定が作成されたが、有隆は兄盛隆とともに装束の役に当てられている。そして行幸当日の勧賞により判官代有隆は従五位上に叙せられている。承安元年一二月六日には院御仏名の定が作成されたが、朝覲行幸の定に準ずるとのことで、有隆は饗と装束の行事に名を連ねている。とはいえ、松殿基房との関係も有する有隆は院司の主流にはなれなかったようで、安元二年(一一七六)三月一〇日には九条兼実のもとに高松院の使者として判官代有隆が訪れている。兼実は高松院の同母姉八条院との間に密接な関係を結んでいた。前述のように三ヶ月後の六月一三日に高松院は急死し、一八日夜の葬儀は生前に関わりの深かった三条実長(中宮姝子時代の中宮権大夫)、藤原隆輔(母美福門院分国周防の国守、内親王姝子の職事、女御姝子の家司)、同母兄盛隆が中心に行ったが、有隆は後白河院からの要請を辞退した。兄隆盛が全体の奉行をするのが理由だと吉田経房が記している(『吉記』)。有隆は高松院の近臣であったが、兄との関係が悪かったのであろう。その後の有隆に関する情報は寿永二年(一一八三)二月の除目で正五位下に叙せられたことのみである。『尊卑分脈』では「右京大夫」とするが、それを裏付けるものはない。なお、顕時流では昇進が遅かった長子行隆が正四位下左大弁まで進み、その子宗行が葉室宗頼の養子となり後鳥羽院政下で権中納言となったが、承久の乱の首謀者の一人として斬殺された。
 以上、基房の知行国に関して確実な情報を加えることができたと考える。

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