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2020年6月22日 (月)

能登守持明院基家をめぐって2

 藤原基家は、滋子が憲仁を生んだ直後の応保元年九月二八日に能登守を解官された。平時忠と平教盛が九月一五日に解官されたのに続く措置であった。一般的には後白河院派であったためだとされるが、もう少し細部を確認したい。
 基家の母は待賢門院女房で統子内親王の乳母を務めていた。嫡子基宗(1155年生)は上西門院因幡を母とし、その嫡子家行は上西門院帥局との間にうまれている。その後、基家は平頼盛の娘との間に保家が仁安二年(1167)に生まれているが、その同母姉が承安元年(1171)に西園寺実宗との間に嫡子公経を生んでいることを勘案すると、基家と頼盛娘の関係は基宗誕生の前後に遡る(保元の乱の前ではないか)可能性が大きい。基家が疑われた背後には頼盛との関係があったことになる。前述のように頼盛と八条院女房(法勝寺上座寛雅の娘、俊寛の姉妹)との間に光盛が生まれたのは承安二年(1172)の事で、頼盛と八条院の関係はこの時点では強くはなかった。
 それでは時忠とともに解官された平教盛はどうであろうか。単純に清盛の異母弟だからですますわけにはいかない。教盛は待賢門院女房を母としたこともあり、崇德院の最側近日野資憲の娘を妻とし、嫡子通盛が仁平三年(1153)に誕生している。その娘が異母兄清盛の嫡子宗盛の室となり、嫡子通盛は宗盛の娘を妻としているが、通盛の当初の妻は上西門院女房小宰相であった。小宰相は待賢門院御願寺法金剛院の造営にあたった藤原憲方と藤原顕隆の娘の間に生まれている。そのため前斎院統子内親王(その後、立后、院号宣下)の女房となったが、母の兄弟顕頼の娘(従姉妹)の子滋子もまた上西門院女房となった。
 本ブログでは、持明院基家、平教盛、平頼盛はいずれも待賢門院・崇德院流に属する人物であることを述べて来た。憲仁の母滋子(母は藤原顕頼の娘祐子)も同様で、それ故に上西門院女房となった。時忠、教盛に対して清盛はこの時点では憲仁を子の無い二条天皇の皇太子とする動きに与していなかったとされる。以上、能登守持明院基家をめぐる問題について確認した。
 保元年間に能登国櫛代庄が伊勢神宮に寄進・立券されたことを可能とした背景には、保延六年(一一四〇)から基家が解官された応保元年(一一六一)九月まで、保元の乱の前後の一時期を除き、持明院通重と同母弟基家が能登守で、その上に分国主として統子内親王がいたことがある。保元三年二月に統子は同母弟後白河天皇の准母として立后(皇后)された。その際に皇后宮権大進に吉田経房、権少進に源頼朝がいたことは有名だが。経房の伯父憲方が皇后宮亮、皇后宮大進は平親範であった。櫛代庄は上西門院立后時に寄進された可能性が高い。櫛代庄も親範からその姉妹の子である範能=大弐三位に継承されたものであろう。

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