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2020年6月28日 (日)

藤原俊忠の子達2

 顕頼の娘が異母弟(叔父)顕長の妻となっているがその子については不明である。俊忠の娘(忠子の妹)俊子もまた顕長の妻となっている。顕長は天治二年(一一二五)正月に八才で紀伊守に補任されており、父顕隆が知行国主であった。顕隆は大治四年正月に死亡したが、越中国に遷任したのは一二月二九日であった。この時点でも顕長は一二才であり、兄顕頼が知行国主であったと思われるが、五味氏のリストから漏れている。父は死亡したが兄が国主を継承し、その後遷任したのである。そうした中で、顕頼の娘を妻とし、その養子となったのではないか。顕長の嫡子長方は保延五年(一一三九)の生まれで、母は俊忠の娘である。顕長は越中守を二期八年務めた後に二〇才で三河守に遷任しているが、久安元年末に遠江守顕広(養父顕頼が国主)と相博した。久安四年正月に顕頼が死亡したが、顕長、顕広ともにその影響を受けていない。顕広も養父顕頼の死亡時点では三五才であり、これ以降は独立した国守となっていく。久安五年四月には丹後守に遷任し(その跡に顕長が遷任)、仁平二年一二月松には左京権大夫に補任され、受領を卒業している。
 顕広は顕頼の嫡子光頼より一〇才年長であるが、その昇進は遅かった。その背景には顕広が崇德院流に属していたためであろう。久安元年に皇后宮(得子)給で従五位上に叙せられたが、これは父俊忠死亡後四年目で一〇才となった大治二年正月に待賢門院第一皇女禧子内親王給で叙爵して以来であった。久安六年に崇德院の歌壇のメンバーによる『久安百首』がまとめられているが、顕広もその一員であった。その頃までは鳥羽院、美福門院、近衛天皇と崇德院との関係も良好であった。崇德の子重仁は美福門院の養子に入っており、久安六年一二月には一一才で元服している。一才年上の近衛天皇も同年正月に元服したばかりで後継者はいなかった。その乳母宗子と夫平忠盛も健在であった。
 そうした状況下で、摂関家の相続争いにからんで、同年三月には内覧頼長の養女多子(公能娘)が入内・立后(皇后)されたのに対抗する形で、摂政忠通も養女呈子(藤原伊通娘で、美福門院の養女となり、次いで忠通の養女となる)を入内させ、六月には中宮とした。多子より九才年長で二〇才である呈子に皇子誕生が期待され、仁安二年一〇月には懐妊に伴う儀式が行われたが皇子は誕生せず、翌年半ば過ぎには想像妊娠であったとして祈祷は停止された。これにより、頼長と忠通の間の溝が深まるとともに、近衛天皇の後継者誕生も望み薄だとして、鳥羽院政の後継者は崇德院であるとの観測が強まった。これに対して、鳥羽院と美福門院は鳥羽院没後の女院所生の三人娘の将来に関して不安を感じるようになった。これにつけこんだのが信西入道と頼長追い落としを画策した忠通で、保元の乱へつながる動きが出てくる。
 話を戻すと、顕広の昇進のスピードが早まるのは久安六年正月に正五位下、翌七年正月に従四位下と続けて叙されて以降であった。美福門女房加賀を妻としたことも大きいとされるが、長子であろう八条院三条が生まれたのは久安四年(一一四八)であった。後白河が即位した久寿二年一〇月にも美福門院御給で従四位上に叙せられている。女院の死亡により一時的に昇進が停滞したが、永万元年七月に二条院が死亡し、次いで翌年七月に摂政基実が死亡し、後白河院が主導権を回復した直後の八月に従三位、翌仁安二年正月に正三位に叙せられた。以上が崇德院派であった顕広が非崇德院派に転じた経過であるが、仁安二年末に養父顕頼にちなむ顕広から実父俊忠にちなむ俊成に名前を変更している。

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