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2020年6月15日 (月)

皇后宮権亮光能2

 舌の根も乾かないうちに訂正記事である(元の「皇太后宮権亮光能」は題名を含めて修正した)。客観的事実を踏まえるならば、仁安三年(一一六八)三月二三日に藤原光能が補任されたのは「皇太后宮権亮」ではなく「皇后宮権亮」でなければならない。そのきっかけとなったのは滋子の入内であったが、皇太后宮権亮には三月二〇日の立后の日に藤原頼実が補任されており、複数の任命は考えられない。頼実は二条天皇派藤原経宗の嫡子であるが、二条院に続いて六条天皇の摂政藤原基実が死亡したことで、経宗が後白河院と妥協する途を選択した。嫡子頼実の皇太后(滋子)宮権亮補任もその一つである。ただし、滋子の母は藤原顕頼と藤原俊忠娘との間に生まれており、光頼、惟方兄弟の同母姉であろう。滋子は七才で外祖父顕頼が死亡し、八才時に父平時信が死亡しており、母の弟である光頼・惟方の保護下で上西門院女房になったと思われる。
 光能は滋子と同様、俊忠の孫(忠成の子)であった。忠成の同母弟俊成は若い頃は顕頼の養子となり顕広と名乗っていた。一方で忠成の妹豪子が德大寺公能の室となり、嫡子実定のみならず、その姉忻子(後白河中宮)や妹多子(近衛皇后)を産んでいた。さらに光能の姉妹の中にも公能の妾となっていた女性がいた。光能の名前も公能の影響であろう。
仁安三年三月二三日に公能が権亮となったのは、実定が大夫を務めていた皇后宮忻子であった。その後、嘉応二年七月には実定に替わって叔父(父の弟)俊成が大夫になり、安元二年九月に、当時は徳子入内により皇太后宮大夫となっていた俊成が出家すると、翌年九月には権大夫を務めていた藤原朝方が大夫となった。それに伴い権亮光能が皇太后宮権大夫となったが、治承三年一一月の平氏のクーデターにより解任された(HPでは1と2を併せた記事に修正)。

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