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2020年6月26日 (金)

石見守藤原邦輔の補足

 佐々木紀一氏「以仁王近臣三題」(『米沢国語国文』三二、二〇〇三年)に記された情報を加味して述べる。
 承元三年(一二〇九)七月と八月に石見守見任が確認できる「邦輔」が成方の子で、九条家家司であることは前述の通りであるが、それ以前に、以仁王の最期を目撃した宗信と同一人物だという。宗信は王の乳母子であり、『延慶本平家物語』には正治元年に改名して伊賀守になると共に「郡〔邦〕輔」名乗ったとする。さらに建仁四年に以仁王の遺児である城興寺宮真性が拝堂登山をした際の房官としてみえる宰相上座最成には「伊賀前司邦輔子」との注記がある(『門葉記』一七六)。石見守に補任されたのは元久二年四月補任の源頼兼の後なので、建仁四年時点では「伊賀前司」で問題ない。佐々木氏は『延慶本」でも伊賀守にのみ言及しているので、『平家物語』の成立時期に関わる可能性があるとしている。
 文治二年三月には、頼朝との関係を背景に摂政となった九条兼実が拝賀のため各所を廻った際に、兼実の嫡子右大将良通の前駈をとつとめた四人の中の一人として「邦輔」がみえるので、宗信が邦輔と改名したのは以仁王の没後間もない時期のことであろう。以仁王近臣であった少納言藤原宗綱の場合は、乱への関与により左衛門尉定頼のもとに預けられた後に備中国に流罪となり、養和元年一〇月八日以前に許されて帰京していた(『玉葉』)。承元四年九月一日には九条兼実の孫道家のもとを訪れ、一二月に大慶の事があるとして、寿命は四〇余才であるが、神社に祈念すれば八八才まで生きることも可能だと述べ、それを当時一八才であった権大納言道家(前年三月に同母姉立子が皇太弟守成=順徳の妃となる)が日記『玉蘂』に記している。寿命と言えば信長の舞った幸若舞敦盛の中の「人間五十年」が有名だが、鎌倉初期の寿命に関する情報である。
 「隠岐守藤原惟頼再論」では、文治二年四月二八日に松殿基房の子家房の拝賀に惟頼がみえ、一〇月七日には摂政九条兼実の着陣に扈従した嫡子右大将良通の前駈としてもみえたことを紹介したが、それに先立ち、上で述べた三月一六日に良通の前駈四人の中に邦輔とともに惟頼もみえていた。

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