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2020年6月 9日 (火)

藤原季行と嫡子定能

 得子の三女姝子の乳母夫となった藤原季行は白河院近臣敦兼(母は堀河天皇乳母兼子)の次男で、母はこれまた近臣として知られる顕季の娘である。同母兄に季兼がいるが、ともに母方の祖父顕季にちなむ「季」を名前に付けている。
 敦兼は一九才で若狭守となり、以後、越後、加賀、越後、尾張と近臣が補任されることが多い国の受領を歴任する一方、白河院の第三皇女令子内親王家の別当を務めた。令子は斎院、鳥羽天皇准母、皇后とされた後、皇太后を経ずに大皇太后となり、そのもとには多数の庄園と女房が集められていた。加賀守在任中の長治二年に従四位上に叙せられると、その後は備中守、但馬守を歴任する一方で、子季兼(能登、阿波)と季行(阿波、能登)を国守として知行国主を務めた。
 季行は大治二(一一二七)年正月に待賢門院御給で叙爵し、大治五年四月には父敦兼の松尾社造進の勧賞と但馬国辞職の替わりとして一七才で阿波守に補任された。次いで長承二年(一一三三)五月には造春日社功により兄季兼と相博して能登守に遷任した。保延五年(一一三九)正月に従五位上に叙せられたのも前斎院統子御給であり、同時に右兵衛権佐を兼ねている。翌六年四月には因幡守に遷任し、次いで康治元年一二月ニハ武蔵守に遷任しているが、ここまでの人事は待賢門院との関係が深かった。季行と『中右記』の記主中御門宗忠の嫡子宗能の娘との結婚も同様の背景のもと行われた。中御門家は待賢門院流に属する。
 ところが、康治二年(一一四三)正月に皇后宮(得子)給で正五位下に叙せられており、以降は鳥羽院・美福門院との関係が強くなる。久安五年(一一四九)一〇月には美福門院庁別当となり、美福門院のもとを慶賀のため訪れる人々の取次を行うようになる。仁平四年(一一五四)八月には得子を母に誕生した鳥羽院姫君が一四才で親王宣下を受けると勅別当藤原成通(季行の姉妹が室)のもとで土佐守季行が家司に選ばれている。次いで久寿二年正月には、播磨、伊予と並ぶ院近臣の指定席である讃岐の国守に補任された。
保元の乱後の保元二年(一一五七)三月には嫡子定能を丹後守とするため讃岐守を俊盛と交替・退任して散位となったが、翌三年三月に大宰大弐となり、退任後の保元四年正月に従三位に叙せられ、非参議公卿となり、二月には姝子内親王が二条天皇の中宮に入内したことにより中宮亮に補任されたが二年後に辞し、翌応保二年(一一六二)八月に出家し四九才で没した。その後家大弐尼が二条天皇没後の永万元年(一一六五)八月に高松院領越後国吉河庄を高野山大伝法院に寄進している。
 季行と尼の子である定能は父の死亡時に一五才で正五位下左少将であったが、公卿補任には左少将補任は欠落している。ただし、仁安二年(一一六七)正月に播磨権介に補任された際には「少将労歴八年」とあり、永暦元年(一一六〇)の補任であろう。同時に正四位下に叙せられているが、高松院当年御給であった。その後、左中将を経て安元二年(一一七六)一二月に蔵人頭に補任され、治承三年(一一七九)正月には参議に補任され公卿となったが、同年一一月の平家のクーデターにより一時的に籠居を余儀なくされた。ただし、俊盛の嫡子季能と同様、翌年正月には復帰し、加賀権守に補任されている。養和元年(一一八一)正月には従三位に叙せられたが、母の弟(同母=長実娘であろう)権大納言宗家の行幸行事賞を譲られたものであった。
 宗家は源義仲のクーデターや源義経の挙兵の影響を受けず、頼朝が推薦した議奏公卿にも入り、文治五年(一一八九)閏四月に正二位権大納言で死亡している。定能が権中納言を経て正二位中納言となったのは叔父宗家の死亡の三ヶ月後であり、その後も建久五年(一一九四)正月には権大納言となり、建仁元年(一二〇一)二月に五三才で出家した後、承元三年(一二〇九)に六二才で死亡した。

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