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2020年6月24日 (水)

藤原顕隆とその子達

 白河院政後半の近臣、勧修寺流為房の子顕隆については「夜の関白」と呼ばれたことが有名であるが、その後の歴史にも大きく影響を与えており、今回はその子を通して確認する。
 前にも述べたように、その個人的資質以上に物をいったのは父為房の妹光子である。一一才年下の光子は正三位為房に対して従二位に叙されている。光子が藤原公実との間に産んだ璋子が白河院の養女となり、院の孫鳥羽院の中宮になった。その背景には公実の同母妹苡子が堀河天皇の女御となり、その子宗仁(鳥羽)が堀河の後継者として即位したことがあった。公実と苡子との間には二三才の差があったが、母はともに藤原経平の娘睦子であった。歴史の人物をみていく上で同母の兄弟、姉妹であることが大変大きな意味を持つ。為房の母は平行親の娘であるのに対して光子の母は不明だが、両者の関係からすると同母であった可能性が高い。
 顕隆が同母(源頼国の娘、二才年上)兄為隆に先んじて昇進した一つの要因はその能力にあったであろうが、それとともに、皇太弟実仁の死を契機に、子堀河に天皇を譲った白河院の蔵人になったこともあろう。兄為隆が堀河天皇の蔵人となった翌年(応徳四)のことであった。為隆が叙爵した同じ年に顕隆は天皇の蔵人となるのと同時に叙爵している。為隆が叙爵の五年後に従五位上となったのに対して顕隆は二年後であり、同年には勘解由次官に補任されている。顕隆が二七才で弁官(右少弁)となったのに対して為隆が同じポストに就いたのは三六才の時であった。顕隆は三〇才で宗仁の春宮大進となり、妻悦子(藤原季綱娘)がその乳母となった。宗仁が父堀河の死で天皇に即位した翌年(天仁元年)には、嫡子顕頼を出雲守として知行国主の地位を得ている。
 永久五年(一一一七)一一月二六日に璋子が鳥羽天皇に入内して女御となるとその政所別当となり、翌元永元年正月に璋子が中宮となると、中宮亮となった。そのもとで実務の中心となったのは二人の権大進、藤原清隆と顕隆の嫡子顕頼であった。そして元永二年に顕仁が誕生すると、顕隆は嫡子顕頼とともに親王家の別当となり、顕頼の同母妹である栄子が顕仁の乳母となっている。顕隆は白河院が死亡する半年前の大治四年正月に五八才で死亡している。
 顕隆の子達の母親として知られているのは藤原悦子と、村上源氏源顕房の娘であるが、後者の子としては藤原顕長のみ知られている。嫡子顕頼と同母弟顕能の年齢差は一三、異母弟顕長との差は二四才で、顕長は顕隆晩年の子である。ここからすると、顕頼と顕能と年齢の近い娘は同母姉妹である可能性が高い。具体的には藤原家政、德大寺実能、藤原清隆、藤原憲方の室となった女性である。家政の嫡子雅教は顕能の娘を妻としている。雅教の同母姉が清隆との間に嫡子光隆を生んでいる。実能の長女幸子(藤原頼長室)と嫡子公能の母はともに顕隆の娘である。憲方は顕隆の甥で、嫡子頼憲と後に平通盛の妻となった上西門院女房小宰相の母は顕隆の娘である。また、頼憲は顕頼の子(従兄弟)である惟方の養子となった。惟方が平治の乱の直後に失脚したことと、仁安三年二月一九日の時点ですでに故人となっていたこともあり、頼憲の従兄弟吉田経房が為隆流の嫡流となっていくが、能吏として知られる経房は頼憲が作成した蓮華王院法蔵の文書目録を高く評価している。清隆の室となった娘は後に顕隆の二七才年下の異母弟朝隆の嫡子朝方(1135年生)の母である。この記事の意図は待賢門院・崇德院流の人々の背景を明らかにすることにある。

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