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2020年6月14日 (日)

藤原定隆について

 定隆は長承三年(一一三四)生まれで、光隆の七才年下の同母弟であるが、八才で叙爵し(正月、春宮=躰仁御給)、一二月には備中守に補任されたが、父清隆の知行国であった。一七才で国守に補任された但馬(久安六)と一九才で補任された加賀(仁平二)も父の知行国であった。その一方で後白河天皇即位の翌年(久寿二年)には右兵衛権佐(二月)と春宮(守仁)権大進(九月)を兼ねた。保元の乱の翌年(保元二年)正月には両官を辞して皇后宮(呈子)亮に補任された。その背景として思いつくのは躰仁=近衛並びにその母美福門院との関係であろうか。呈子は近衛の皇后であるとともに女院の養女であった。
 平治元年(一一五九)一〇月には加賀守から丹波守に遷任したが、同年二月には皇太后宮(呈子)大夫重通(叔父)が中宮(姝子)大夫に転じ、四月には同母兄伊実が解官されていた。また同年末には平治の乱が起こり、翌年二月末には同母妹の夫であり二条天皇派の中心であった藤原経宗が解官されてしまった。経宗は定隆の同母弟通成を養子にしていた。七月には丹波守から三河守に遷任しているが、丹波守には前任者の藤原成行(知行国主三条実行)が復活している。三河守の前任者は不明であるが、前年末に平頼盛が三河守から尾張守に遷任したばかりであり、短期間で交替したことになる。同年一二月には美福門院、応保二年(一一六二)四月には父清隆が死亡している。
 一方、阿波国に配流されていた経宗は同年三月に召喚され、長寛二年(一一六四)正月には正二位権大納言に復帰した。その除目で定隆は三河守から越中守に遷任したが、越中国は経宗の知行国とされた。翌年七月一八日には伊予守に遷任したが、伊予国も経宗知行国であった。ただし、経宗が外戚であった二条天皇は六月には子六条に譲位したが、七月二八日に二三才で死亡した。次いで六条を支えた摂政近衛基実が翌永万二年(一一六六)七月二六日に死亡したことにより、一〇月一〇日には後白河院と平清盛の室時子の異母妹滋子の間に産まれた憲仁が立太子された。これにより六条天皇派である経宗も後白河院との関係を修復した。定隆も一二月二日には皇太后宮亮を辞し、仁安二年(一一六七)一月一九日に後白河院が法住寺新御所に移渡した際にはその別当として定隆がみえる。長兄光隆は平治元年五月から永万二年正月までの後白河院庁下文の署判者としてみえるが、定隆はみえない。光隆もその後は建久三年正月の院庁下文にみえるのみである。光隆の嫡子雅隆は暲子内親王が院号宣下により八条院となった応保一年一二月に女院判官代となり、文治二年一〇月の八条院庁下文にも別当として署判を加え、治承四年一二月の高倉院庁下文の署判者としてみえる。
 その一方で、定隆、頼季、通成の同母兄弟と雅隆(三人の同母兄光隆の嫡子)等は仁安二年二月二五日に後白河院女御琮子(父三条公教、母清隆の娘)が八条殿から三条殿へ渡御する際に供奉している。琮子の母もまた同母(藤原家政の娘)姉妹であった。琮子が誕生した時点で光隆は一九才であり、光隆の嫡子雅隆が琮子の二才下であることからすると、姉であろう。
 定隆は滋子が女御をへて仁安三年三月に皇太后に立后されると、皇太后宮亮に補任され、同年八月には院行幸の勧賞で従三位(非参議左京大夫)に叙せられ公卿となったが、二年後の嘉応二年(一一七〇)一〇月に三七才で急死した。なお、定隆の遺児隆子は文治元年に藤原経宗の嫡子頼実(母は清隆娘)との間に女子を産んだが、後に後鳥羽院の子土御門天皇の中宮となった(大炊御門麗子=陰明門院)。当初は定隆と経宗の関係を明らかにしようと思ったが、二条天皇、後白河院との関係などを認識させられた。長兄光隆やその嫡子雅隆をみると、全体として清隆の子達は後白河院との間には距離を置いていたと評価出来る。

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