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2020年6月 1日 (月)

摂津国富嶋庄1

 『兵庫県史』史料編・古代三の中に、永暦元年七月三日広隆寺(京都太秦)所司等解(申状)がある(東寺百合文書)。寺領摂津国富嶋庄を当任国司が、以前の右衛門督が知行国主であった際の例にならって国衙領に戻そうとしていることに対して、庄園として認めることを訴えている。この時点では弘誓院領で、本所である美福門院は健在である。富嶋庄については、『角川地名大辞典』がネットで公開されているが、そこでは右衛門督を平治の乱で処刑された藤原信頼と解釈している。ただし、信頼は摂津国との関係がなく、半年前に処刑されたばかりで、「夭亡」したとの表現ともずれている。右衛門督補任は処刑の一年一ヶ月前の保元三年一一月八日である。当任も問題となるが、平治の乱の最初のクーデターで河内国の源頼憲が摂津守に補任されたようだが(『平治物語」古活字本)、信頼とともに滅亡した可能性が大きく、応保元年九月一五日に辞任した小槻永業である可能性が高い。永業の父政重も康治元年に摂津守に補任されている。小槻氏のような実務官僚は在庁官人と結んで庄園に対して厳しい対応をとることが多かった。
 小槻政重の後任として久安二~三年に皇后得子(美福門院)の乳母夫藤原親忠が摂津守に補任されているが、久安四年一一月五日には筑前守藤原重家と相博している。重家は藤原顕季の孫であるが、父顕輔は白河院の勘気にふれ失脚し、院の死後、崇德天皇中宮聖子の中宮亮に起用されて復活し、崇德天皇の治世である保延三年に従三位公卿に列せられた。重家も長承三年に待賢門院判官代から崇德天皇の蔵人となっている。摂関家並びに待賢門院・崇德母子との関係が強かった。ただし、待賢門院の没(久安元年)後は摂関家並びに美福門院との関係が強くなる。親忠との守相博もその流れで行われたものであろう。仁平三年には女院の側近藤原俊盛の兄弟であった信盛が急死したことを受けて上野介となり、永暦二年には親忠の孫である若狭守隆信と相博している。若狭守と能登守をそれぞれ一年弱務めた後に刑部卿となるが、承安元年一〇月には太宰大弐に補任された。五味文彦氏が明らかにしたように、大宰府は関白分=基房の知行国で、摂関家との関係も維持していた。

 

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