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2020年6月22日 (月)

後白河院の分国3

 明証のある最初の後白河院分国は、応保元年(一一六一)一〇月二九日に藤原脩範が国守に補任された美濃国である。脩範は藤原信西の子で、この時一九才であるが、この四年前に一五才で美濃守に補任されている。父信西が知行国主であったと思われる。ところが信西を排除するクーデター=平治の乱が起こされ、父は死亡し、脩範も国守を解官され、配流された。後任となったのは、待賢門院侍として石見守に補任された卜部兼仲の弟基仲であったが、後述のように応保元年九月末に解官され、その後任に、流罪から還任していた脩範が二度目の美濃守補任となったが、前回とは異なり、後白河院の分国であった。
 永暦元年(一一六〇)一二月に二条天皇の養母美福門院が死亡し、翌応保元年九月三日に後白河院と滋子との間に憲仁(高倉)が誕生した。その直後の九月一五日に滋子の異母兄右少弁時忠と清盛の異母弟常陸介教盛が解官された。次いで二八日には右馬頭藤原信隆と右中将藤原成親、能登守藤原基家、美濃守卜部基仲、飛騨守藤原為行、内匠頭藤原範忠が解任された。その理由は明確ではないが、時忠と教盛は憲仁を後継者のいない二条天皇の皇太子としようとして天皇により解官されたとされる。二八日に解官された人物については日記や公卿補任での解任時期の情報が錯綜しているが、上記の通りであった。
 時忠は甥の立太子を望み、教盛はそれが平氏一族に好都合と考えたのだろうが、第二弾の解官メンバーは後白河院の近臣である。にもかかわらず、美濃国は後白河院分とした上で、院の乳母の子脩範が国守に補任された。脩範は嘉応元年(一一六九)一二月には美濃守を辞任し、後任には院近臣信隆の同母弟信行が補任されたが、その一方で、その一年以上前の仁安三(一一六八)年八月には伊予国も院分とされ、前任の信隆に替わって同母弟で三二才の親信が国守に補任されている。親信は二年前の仁安元年六月に受領(備中守)から中央の官職である右馬頭に遷任していた。それを再度受領に戻すとともに伊予を院分国としている。この間、永万元年(一一六五)七月には二条天皇が死亡し、仁安三年二月には二条の子六条天皇が退位し、滋子の子憲仁が高倉天皇として即位している。

 

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