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2020年6月 5日 (金)

八条院関係者と知行国2

 保元の乱後、多子の位置は低下したが、二条天皇が入内を求めたことで、その存在感は回復した。保元三年に大夫忠能が死亡すると、大夫は空席のままで、二七才の権大夫德大寺公保(非参議右兵衛督)が責任者であった。多子が平治二年正月に入内すると、正月には平頼盛が亮に、四月には権大進に平経盛(九才年上の異母兄)が起用された。二年後の応保二年七月に頼盛が修理大夫に補任されると、経盛が亮に補任された。仁安元年には公保が大夫に昇進した跡に俊盛が権大夫に補任されたものである。
 安元二年二月に原因は不明だが、平経盛が亮を辞任した。ところが、八月には大夫公保が出家し、翌治承元年九月には権大夫俊盛が出家したため、治承二年(一一七八)正月に経盛が権大夫に補任された。俊盛自身は治承三年一月六日の言仁親王(安徳)五〇日の行事で遠江国知行国主(大宮権大夫入道)として子である国守盛実とともに負担をしており健在ではあった。その他の役人で確認できるのは仁安二年一二月以来、権亮をつとめている一条能保のみである。能保は持明院通重と德大寺公能の娘との間に久安三年(一一四七)に生まれた。後に室とする坊門姫の同母兄頼朝と同年齢である。大夫公保(公能の異母弟)との関係で起用されたのだろう。この時点で坊門姫とは結婚しており、仁安二年には後に九条兼実の次男良経(兄良通が早世したため嫡男となる)の正室となる娘が生まれている。経盛は寿永二年の平家の都落ちまで権大夫を、能保は翌元暦元年まで権亮を務めた。
 俊盛の没年は不明であるが、元暦元年(一一六四)九月には大嘗会御禊の院御桟敷造進が三位入道俊盛とその知行国伊賀・常陸・丹波に課せられている。ただし、伊賀は平家与党の謀叛が発生したこともあり、大内冠者惟義が知行しており、有名無実だと中山忠親が述べている。『吾妻鏡』では元暦元年三月に惟義が後の守護に補任されたとしている。国守については元暦元年一一月一七日の大嘗会に関する叙位で丹波守藤原盛実が従四位下に叙されている。盛実は俊盛の子で、前年一二月の時点では俊盛の子季能の知行国備後の国守であった。この当時、季能は常陸(介藤原俊長)、伊賀(守藤原仲教)の国主で、伊賀・備後両国が平重衡に焼討された興福寺造進に宛てられていた。それが翌年に原因は不明だが、父俊盛が国主に復帰し、備後が丹波に変更され、国守盛実が遷任している。これまで多くの造進を行った俊盛に期待したのであろうか。伊賀・常陸については国守の変更はなかったと思われる。常陸介俊長は「俊」の字から俊盛の子ないし兄弟であろうが、仲教と俊盛の関係は不明である。
 仲教は「七宮坊官、上座」との注記がある僧仲祐の子であるが、注目すべきは、大江広元の娘を室としていることである。頼朝が建久二年(一一九一)に上洛した際の記事にも度々登場する。一一月八日には六波羅の頼朝のもとに後白河院との会談用の御直衣を届け、一三日には頼朝が朝廷に送る砂金、鷹羽、御馬の御解文を仲教を通じて吉田経房のもとに届けさせている。次いで建久六年三月には東大寺供養に向かう頼朝の供奉を行い、四月の石清水八幡宮参詣にも供奉している。

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