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2020年6月13日 (土)

藤原俊盛・長清の補足2

 長輔が永治元年(一一四一)一二月に即位した近衛天皇から昇殿を認められたのも一二年後の仁平三年(一一五三)正月であった。翌四年三月に内蔵頭に補任され、一二月には従三位に叙されて公卿となった。長輔の子隆輔(当初の季長を隆長へ改名するが、頼長の子と同じため再改名、晩年には季隆に三度改名)は康治元年(一一四二)一二月に叙爵(大宮御給)し、久安三年(一一四七)八月に従五位上、仁平二年正月に正五位下、久寿二年(一一五五)正月に従四位下とそこそこのスピードで昇進している。中務大輔補任後、違例の周防守(長明はその後承安三年まで中務大輔とみえ、相博したと考えられる)となったのは美福門院分国であったためであった。永暦二年(一一六一)八月には中宮(姝子)亮となり、承安三年(一一七三)に非参議公卿となった。隆輔(季長)、長明、実清はともに藤原清隆娘を母とする同母兄弟であるが、長明のみ公卿にならなかったため生年が不明である。隆輔は実清より九才年上であるが、美福門院分国の国守となったのは実清が最初で、仁平三年に一五才で越前守に補任されている。次いで長明が久寿二年に周防守に補任されており、長清の弟であろう。その後任が従四位上中務大輔であった兄隆輔であったのは女院分国ゆえの違例の人事であろう。隆輔は蔵人、左兵衛佐、中務大輔と中央の官職を歴任していた。
 長輔流と清隆との関係に対して俊盛流は外祖父藤原致兼流との関係が大きかった。俊盛の母の姉は藤原宗通の子成通の室となったが、成通は姝子が親王宣下を受けた際の勅別当であり、母の弟藤原季行が姝子の乳母夫で、内親王家家司であった。俊盛の姉妹は高階盛章との間に永治二年(一一四二)に隆行を産んでおり、俊盛とは同母である可能性が高い。盛章の娘八条院女房三位局は以仁王(1151-)、九条兼実(1149-)との間に子良輔(1185-)を産んでおり、八条院に仕えていることからして隆行の同母妹であろう。季行の娘兼子もまた兼実との間に子良通(1167-)以下の子を産んでおり、季行の嫡子宗能の年の近い同母姉であろう。保元三年(一一五八)八月には季行が太宰大弐を辞して隆行を安芸守に申し任じている。隆行は藤原姓だが、系図では季行の子にはみあたらず、藤原顕盛の娘が鳥羽院近臣高階盛章との間に産んだ子であるが、盛章は保元元年閏九月二五日に病没している。顕盛の室は季行の姉妹(同母であろう)であり、俊盛の母であり、隆行の母は俊盛の同母姉妹であろう。こうした背景から高階隆行が季行の養子に入ったと思われる。隆行は平治の乱後の永暦二年四月一六日までには丹波守に遷任し、翌応保二年(一一六二)二月一九日には二条天皇に入内した藤原育子が立后された事に伴い、中宮権大進に補任されているが、養父で丹波国知行国主であったと思われる季行は同年八月に出家し没している。これにより隆行は丹波守を退任したと思われるが、その後の補任歴としては、仁安二年(一一六七)五月には六条天皇から「前和泉守隆行」が昇殿を許されており、和泉守に補任されたことが確認できるのみである。

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