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2020年6月28日 (日)

藤原俊忠の子達3

 俊忠の娘豪子は德大寺公能の妻となり、その子と系図で明記されている子が七名いる(豪子以外の妻の名前は不明)。その中の最年長が後白河天皇の中宮となった忻子(一一三四年生)で、最晩年の子公衡(同母弟)との間に二四才の差がある。持明院通重の妻となった娘は嫡子能保を久安三年(一一四七)に生んでいることからすると、忻子の姉であろう。また能保の妹が公能子公衡の妻となっており、能保の同母妹で、その母は忠子であろう。
 俊忠の長子であろう忠成は父の死亡時には三三才になっていたが、久安三年に民部大輔に補任されたのが極官で、保元三年(一一五七)に五八才で死亡した。德大寺公能(一一一五年生)の妾となったのは嫡子光能の姉で、以仁王(一一五一年生)の妾と持明院基宗(一一五五年生)の室となった女性は妹で、忠成晩年の子であろう。光能は父忠成の死亡時に二三才で叙爵していたが、従五位上に叙された(院未給)のは一八年後の長寛二年(一一六四)一一月で、父忠成は七年前に死亡していた。その名から姉の嫁ぎ先德大寺家の庇護下もあったと思われるが、叙位の一月前には公能の嫡子実定が権大納言に昇進していた。翌永万元年に待賢門院女房関屋(その娘は崇德院の最側近日野資憲)の弟である藤原懐遠から譲られて下野守に補任され、二年後の永万二年正月の後白河院政所下文の署判者としてみえる。次いで仁安二年(一一六七)正月には正五位下に叙せられ右少将を兼ね、一二月には従四位下に叙せられるとともに、叔父俊成の子光季(定家)を国守として紀伊国知行国主となった。翌三年三月には公能の娘で後白河天皇に入内した忻子(中宮から姝子内親王の二条天皇の中宮に立后されたことで皇后となる)の皇后宮亮に補任された。
 定家は父俊成が四九才時の子で、五才で叙爵し、六才で紀伊守に補任されたが、その当初の名光季は三〇才年上の従兄弟光能にちなむものであった。承安二年(一一七二)六月には光能の子弘家が紀伊守に補任されているが、光季の動向は、安元元年(一一七五)一二月に父俊成が右京大夫を辞して侍従に申任するまで不明である。この時点では「定家」とみえる(『玉葉』)。とはいえ、従五位上に叙されたのは治承四年(一一八〇)正月で、叙爵の一三年後であった。寿永二年一二月に正五位下に叙せられているが、八条院の御給であった。定家の母は八条院の母美福門院女房加賀であった。翌三年には藤原季能の娘との間に長男光家が生まれているが、季能の父俊盛は美福門院・八条院母子に仕えていた。定家の昇進が起動に乗るのは、文治二年三月に前年一一月末の除籍処分が解除されてからである。三月一二日の勧学院衆参賀に対する饗で、二献を務めた権中納言定能(藤原季行と中御門宗能の娘の子)の瓶子を侍従定家が務めている。それに先立つ正月一三日の興福寺と法成寺の僧徒による参賀でも役割を務め、三月一六日に九条兼実が行った摂政補任の拝賀でも前駈殿上人としてみえており、兼実との関係を強めていた。以上、光能とその甥定家の状況をみた。光能は後白河院の寵臣とされるが、本来は待賢門院関係者として德大寺家との関係が中心であった。
 俊忠の子に関連して俊成の子に、八条院、高松院、上西門院、建春門院の女房となった多数の娘がいることも重要であるが、それについては別の機会に検討したい。

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