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2020年6月22日 (月)

後白河院の分国4

 六条幼帝の摂政基実が死亡した翌月の仁安元年八月には時忠の長子時実が一六才で越後守に補任されている。知行国主は同日付で従四位下に叙せられた時忠であろうが、さらにはその上に分国主として守仁親王の母滋子がいたと思われる。鳥羽院の寵姫得子の場合も女御となる以前から分国(知行国)が認められていた。仁安二年一月には滋子が女御とされ、その家司として父時忠とともに越後守時実がみえている。同年一月には隠岐守に見任している中原宗家も女御滋子の役人としてみえ、仁安三年三月に滋子が女御から皇太后となった際には、時実の同母弟時家が皇太后宮少進、宗家が宮大属に補任されている。この時期の隠岐国も滋子の分国であったと思われる。宗家は仁安二年一二月末に伊豆守に遷任しているが、分国も隠岐国から移動している。
 越後国は嘉応元年一二月末には平信業が国守となり、藤原成親の知行国となった。滋子の分国は伊賀に遷り、皇太后宮権大進(→建春門院庁判官代)平親宗の子でわずか六才の親国が国守に補任された。親国は嘉応三年正月には阿波守に遷任している。安元二年(一一七六)七月に建春門院が没すると、女院庁別当以下の役人の多くは後白河院庁の役人に戻っている。後白河院分国は公卿補任で知られるよりもはるかに多数存在したと思われるが、ここではその初期の院分国と滋子(建春門院)分国について確認した。すでにみたように、後白河院は八条院の近臣藤原俊盛の嫡子宗能を自らの分国とした周防の国守にした例もあった。父鳥羽院や兄崇德院、さらには美福門院の庄園を継承できなかった後白河としては、父鳥羽院政期で廃止された一院分国を復活することで、近臣の組織化を行いつつ、次いで新たな庄園の集積を行っていった。

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