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2020年6月 3日 (水)

多子・呈子・姝子1

 頼盛について確認する中で、永暦元年(一一六〇)四月の大皇太后(多子)宮亮補任と、仁安元年(一一六六)一〇月の皇太后(呈子)宮権大夫補任の位置づけを確認することが必要となった。近衛天皇に入内し、皇后(多子)と中宮(呈子)となった両人は過去の人であり、その役人に補任されることは意味がない(=頼盛は非主流派)ようにも思われる。とりわけ、多子はその入内を推進した養父藤原頼長とその子が保元の乱で死亡、配流となった.そのため、多子の実父德大寺公能が別当、頼長の嫡子兼長が権大夫という体制が、公能の従兄弟で非参議公卿忠能(経忠子)が大夫、公能の異母弟右近衛権中将公保が権大夫というグレードダウンした体制となった。摂関家家司がそのサポートにあたることもなったが、保元三年八月に即位した二条天皇が多子に再入内を求めたことで、二条親政下では存在感が上昇した。頼盛は後白河院ではなく二条天皇の側に立ったともいえる。
 後白河天皇の即位とその室忻子が中宮となったことを受けて、呈子は皇后(多子は皇太后)となったが、叔父(重通)と兄(為通の死により伊実)が呈子を支える体制に変化はなかった。保元三年二月に後白河の同母姉統子内親王が准母として皇后に立后されたことで、呈子は皇太后(多子は大皇太后)となった。次いで保元三年八月に暲子内親王の同母妹である姝子内親王が二条天皇に入内(中宮)すると、保元四年には叔父重通が中宮大夫に転じ、皇太后大夫は空席となった。姝子は統子内親王の養女となっており、保元四年二月に院号宣下により上西門院となった統子が母待賢門院から継承した所領の相続が期待されていた。
 平治の乱を経て、永暦元年(一一六〇)一二月に美福門院が四四才で死亡し、応保元年(一一六一)一二月には美福門院の後継者ある暲子内親王が院号宣下をうけ、八条院となった。次いで応保二年(一一六一)二月には姝子が院号宣下により高松院となったが、これは藤原忠通の娘育子の入内(中宮)が実現するための方便であった。育子は德大寺実能の子で忠通の養女との説もあるが、中宮大夫兼実(忠通の子)以下の顔ぶれに德大寺関係者はおらず、忠通の実子であろう。
 姝子の中宮大夫であった源雅通は、姝子に先立ち院号宣下を受けた姉暲子の勅別当となっており、中宮権大夫実長も新たに入内した育子の中宮権大夫に転じており、高松院となった姝子を支えたのは乳母夫藤原季行に替わって中宮亮となったばかりの藤原隆輔である。姝子は仁平四年に内親王、保元元年に二条天皇に入内し女御、同四年に中宮となったが、従来内親王、女御辞代の家司・職事として支えて来た中心メンバーで中宮の役人となったのは乳母夫季行(亮)のみであり、隆輔や平頼盛ははずれている。高松院については角田文衞氏「高松女院」(『王朝の明暗』)があるが、女院そのものの分析にとどまっており、女院研究の中でも言及されていない。


 

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