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2020年6月22日 (月)

能登守持明院基家をめぐって1

 伯耆国三野久永御厨の給主大弐三位藤原範能は能登国櫛代(くしろ)御厨の給主でもあった。三野久永御厨は長寛年中(一一六三~六五)の立券である。当時の伯耆国守は平基親で、その父親範が知行国主と考えられる。基親は保元三年(一一五八)に出雲守に補任されたが、翌年に隣国伯耆守源光宗が知行国主である父光保とともに一年で交替すると、その跡に遷任した。伯耆国は久安四年(一一四八)から二期八年親範が国守であった。それにゆえに、基親が国守となるとすぐに伊勢神宮領である御厨の立券が可能であった。給主範能は信西入道の子脩範と親範の姉妹との間に生まれている。
 これに対して能登国櫛代御厨は、保元年間(一一五六~五九)の立券であるが、承久三年(一二二一)九月六日能登国大田文には鳳至郡櫛比庄とみえている。九〇町九反の大規模庄園であるが、大田文には立券時期の欄は空白となっている。能登国では鳥羽院政期、それも持明院通重が国守であった時期(久安元年と二年)に五〇〇町の若山庄等大規模庄園の立券が集中しているが、「久安年中八幡宮券状」とある鹿島郡飯川保から「寿永三年(一一八四)券免」と記されている同郡高田保まで、三〇年間以上庄園の立券がみられない。ただし、大田文では元暦二年(一一八五)立券とある菅原庄は、持明院通重の祖父基頼が元永元年(一一一八)に菅原保を北野天満宮に寄進しており、元暦二年に再寄進・再立券され、菅原庄が最終的に確定した時期であろう。それは他の庄園にも該当し、大田文の立券時期を相対化する必要がある。
 保元年間の能登守は通重の弟基家である。一般的には最初の上西門院分国は仁安元年(一一六六)八月に持明院基宗(基家嫡子)が国守に補任された加賀国で、能登国については寿永二年一二月に基宗の子基能(母は上西門院帥局)が国守に補任されたことで女院分国となったとされるが、本ブログでは、通重が国守の時期の能登は待賢門院の娘で前斎院と呼ばれた統子内親王の分国であると理解している。能登守は通重が早世したため同母弟基家が継承した。保元元年(一一五六)正月に能登守は藤原家成の異母兄家長に交替したが、保元の乱後の九月には基家が能登守に再任されている。櫛代御厨の立券はこの基家の国守在任中(当ブロクではこの時期も前斎院分国)であった。範能の祖父信西入道は待賢門院判官代から鳥羽院近臣に転じ、保元の乱で崇德院を排除した張本人であるが、庄園の立券にあたったと思われる平親範は、祖父平実親以来待賢門院との関係が深かった。これも通説では女院との関係の深かった藤原家成、藤原顕頼、藤原清隆(親範の外祖父)は近衛天皇の即位の前後から美福門院派へ転じたとされるが、そうではなく、複数の有力者との間に関係を結び、これを維持していた。近衛天皇が死亡する直前までは鳥羽院後の治天の君は崇德院が最有力であった。

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