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2020年6月29日 (月)

隠岐守藤原惟頼の謎

 隠岐守惟頼は知行国主松殿基房知行国の国守としたが、治承三年一一月に解官されたリスト(『玉葉』、『山槐記除目部類』による)中には含まれていない。安元二年正月三〇日の隠岐守補任なので、治承四年正月には一期四年の任期が終了するが、どうであろうか。平氏のクーデターの直前の一〇月二五日に中納言に補任された基房の子師家が拝賀した際の前駈メンバー中で、受領に見任しているのは壱岐守盛業、上野介頼高、隠岐守惟頼、対馬守親光である。壱岐守盛業は補任時期は不明だが、治承四年一月二八日の除目で源俊光に交替している(ただし俊光は補任直後の二月二〇日に辞任)。治承元年九月補任の上野介頼高は日野兼光が知行国主で、任期途中であったため解官されていない。治承三年正月補任の対馬守日野親光は資憲の子であるが、これも解官されていない。四人がいずれも摂関家と関係の深い人物であったことは共通している。
 松殿師家の中納言補任は平清盛が支援してきた近衛基通を超えたもので、クーデターの一つの原因とされるものであるが、惟頼の場合は、任期満了が迫っていたためか、あるいは文治二年三月一六日に九条兼実の子良通の前駈にみえるように、松殿家だけでなく九条家との関係も深かったため、解官の対象から外されたのだろうか。ただし、治承四年正月二八日の除目にも隠岐守はみえない(『玉葉』、『山槐記除目部類』)。『玉葉』には重任を含めて受領の除目が掲載されているが、そこにも見えない。
 以上のように、佐渡守藤原重頼と藤原惟頼、隠岐守藤原惟頼は松殿基房と関係の深い人物が国守に起用されたが、基房の知行国ではないとすべきであろうか。一一月に解官されたが、そのリストから漏れていたというのが一番分かりやすいが、謎である。

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