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2020年6月28日 (日)

藤原俊忠の子達1

 待賢門院・崇德院流の最大のキーマンは白河院であるが、公家としては、前述の勧修寺流顕隆とともに、道長の曾孫俊忠がいる。その子で最も有名なのは歌人としても知られる俊成であろうが、その同母兄弟・姉妹も多い。俊忠女子の場合、ほとんどが母親は不明であるが、俊忠の妻としては藤原敦家の娘以外の情報はない。敦家とその妻兼子(藤原顕綱娘)との間に生まれたのが俊忠の妻と白河院近臣敦兼である。俊忠の長子と思われる忠成は早くから頼朝と連絡を取っていた光能の父であるが、同母弟俊成との間に二三才差があり、系図で知ることができる六人の男子以外に娘がいた可能性は大きい。
 俊忠の娘忠子は顕隆の嫡子顕頼の妻となり、祐子(一一四二年に滋子を生んでおり、光頼の姉であろう)、嫡子光頼(一一二四年生)、惟方(一一二五年生)、成頼(一一三六年生)、頼子(一一三八年生の藤原頼長の長子師長の妻であり、成頼の妹であろう)を生んでいる。顕頼の娘公子は藤原忠隆の子信頼(一一三三年生)の母であり異母姉であろう。顕頼にはこの外孫信頼の妻となった娘もおり、この女性は忠子の娘が母であった可能性があるが詳細は不明である。また藤原家成の子家明(一一二八年生)の妻となった娘がいるが、承安二年(一一七二)一二月に四六才で死亡した家明の子として唯一系図に記載がある家光は承安二年二月に清盛の娘徳子が高倉天皇の中宮に立后された儀式で、中宮大進基親(親範子、一一五一年生)、同権大進藤原光憲、同権大進宗頼(光頼子、一一五四年生)、兵衛佐平経正、右兵衛佐藤原実教(家成子、一一五〇年生)らとともに、「兵衛佐家光」が御物搬入や宴座の運営にあたっている。
 生年不明の光憲は系図では信西の子とするものと、孫=貞憲(一一二三年生)の子とするものがあるが、「醍醐寺無量寿院院務法流相承」(三宝院文書)では中納言僧都全賢について、「備中守光兼(憲)息、貞憲孫」としており後者が正しい。「興福寺奏状」の起草者として知られる貞慶(一一五五年生)も貞憲の子であるが、平治の乱で父貞憲が祖父信西とともに失脚したことで仏門に入ったという。
 同じく生年不明の平経正は清盛の異母弟経盛(一一二四年生)の子で、文化人としても知られていたが、一ノ谷合戦(一一八四)で戦死している。末弟敦盛(一一六九年生)も同合戦で熊谷直実に討たれ、後世にはその場面が能や幸若舞の題材として流布した。清盛の異母弟教盛(一一二八年生)の子通盛(一一五三年生)は仁安元年(一一六六)一〇月に一四才で左兵衛佐となり、翌仁安二年閏七月一〇日には左馬権頭平経正、左馬頭平重衡(一一五七年生)、散位藤原実教、越後守平時実(時忠子、一一五一年生)等とともに昇殿を許されている。父経盛の昇進が異母弟教盛より遅いことを勘案すると経正の生年は一一五〇年前後ではないか。
 ということで信西の孫光憲もまた一一五〇年前後の生まれであり、兄弟などの情報を欠く家光もまた同世代であり、家光を生んだ顕頼の娘は惟方と成頼の間に生まれた同母姉妹である可能性が高い。その名に「光」が付いているのも光頼(一一七三年死亡)との関係であろう。

 

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