koewokiku(HPへ)

« 八条院関係者と知行国3 | トップページ | 藤原俊盛の補足 »

2020年6月 5日 (金)

八条院関係者と知行国4

 ここで問題となるのは、俊盛が出家するまでの一一年間にわたって大皇太后宮(多子)権大夫を務めた意味である。俊盛自身は叔母美福門院の分国の国守を四ヵ国にわたって務めている。当然、女院の娘である八条院、高松院の有力な支援者であろうが、形の上では両院の別当を務めた形跡はうかがわれない。仁安二年には二人の子季能(讃岐守)と季盛(周防守)の知行国主として院御所の造営を実現している。非参議公卿ではあるが、知行国の経営手腕に優れた人物であった。権大夫補任の四年後の嘉応二年(一一七〇)には知行国であった遠江国池田庄を松尾大社に寄進し、太政官符を得ることに成功している。鳥羽院近臣藤原顕頼が遠江国知行国主であった際(一一三八~一一四五)に、河村庄の税が松尾大社供御料に宛てられていたが、その後、新日吉社に寄進されたため、神事に支障が出たとして新たな庄園の寄進を求めていた。これに俊盛が応え、翌嘉応三年に政府が立券を認めたものである。田数三〇〇町を越える大規模領域庄園であった。池田庄が大皇太后宮に寄進された訳ではないが、これとは別に大皇太后宮領庄園はあったはずである。多子は建仁元年一二月に五三才で死亡した。現在に到るまで最後の大皇太后である。
 なお、十分に意味が理解できていないが、仁安二年(一一六七)から元暦元年(一一八四)まで一八年間弱大宮権亮を務めてきた一条能保は六月五日に讃岐守に補任され、権亮を止められたが、藤忠季を任じたとある。次いで七月三日には権亮を譲り藤原長経が補任されたともある。前出の忠季とは法勝寺執行能円の娘を室とした中山忠親の子忠季であるが、建久七年(一一九六)正月に正四位蔵人頭兼右近衛中将で死亡している。三〇才前後であるが、公卿にならなかったため、その経歴の詳細は不明であるが、能保もまた能円の娘を室としたおり、忠季とは関係があった。長経は八条院の寵臣実清の子で、女院分国丹後の国守であった長経であろう。その経歴をみても、寿永元年八月に皇后宮(亮子)権大進に補任されているが、大宮権亮には補任されたことはない。ただ、頼朝の妹を正室とする能保と八条院近臣長経の関係は注目すべきものである。
 これまで述べて来た記事は、頼朝の挙兵に後白河院が深くかかわっていたという近年有力となった説が根拠無き虚像であることを明らかにするためである。「反後白河」とまで言えなくとも「非後白河」というべき集団に属する人々について述べている(なお途中である)。八条院は上西門院とともに「非後白河」の人々を結びつけたが、その一方で、大皇太后宮多子、皇太后宮呈子(九条院)、皇后宮忻子の存在も関係者を結びつけたとの見通しのもと、美福門院の寵臣俊盛について述べた。俊盛とその子孫はなぜか八条院との直接的なつながりは明確ではないが、やはり非後白河という流れで動いていた(つづく)。石井進氏が八条院領に対する後白河院や院司の支配の強さを説かれたのに対して、五味氏はその根拠となる点を一々潰していき、八条院は後白河や平家とは独立していたことを明らかにした。従来述べていた「待賢門院(・崇德院)流」の概念のみでは説明が不十分なため、あらたに検討している。

« 八条院関係者と知行国3 | トップページ | 藤原俊盛の補足 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 八条院関係者と知行国3 | トップページ | 藤原俊盛の補足 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ