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2020年6月 8日 (月)

松殿基房の知行国1

 摂関家知行国の変遷を論じた五味文彦氏は、応保二年(一一六二)正月三〇日に藤原邦綱が国守に補任された播磨国は、忠通から基房に譲られたものとの説を示した。その根拠となるのは仁安二年(一一六七)閏七月日賀茂社神主等解(兵範記紙背文書)であり、永万元年(一一六五)七月一八日に播磨守を辞した邦綱とその後任として補任された藤原隆親の在任中、播磨国は基房の知行国であったとの説を示した。その後、この研究を深めようとする研究者が皆無なのは先駆者五味氏にとっても不孝(幸)なことであるが、五味氏の説で、隆親は正しいが、邦綱の時期は摂関家知行国ではないと考えるので、以下にその論拠を示したい。
 きっかけは、歴博本『顕広王記』永万元年六月二四日条に「国替、丹後〔波〕・伊予云々」とあったことであった。『国司一覧』で確認すると、第一に丹後は丹波の間違いである(ではなかった)ことがわかる。この日に丹波守藤原資頼が伊予守に遷任している。後任は仁安元年八月二四日に任を止められている藤原盛隆と思いきや、伊予守を確認すると、藤原資頼の前任は藤原基房とある。そこで典拠である『平安遺文』三三五六を見ると、昔なつかしい(大学の卒論で扱った)伊予国弓削嶋庄の史料であった。目代安倍資良が奉じた御教書であり、端裏には「左大臣」とあった。ただし、それに続く三三六一号では「右大臣」藤原経宗の知行国となっている。えらく短期間に替わったと思い、網野善彦氏が中心としてまとめられた『伊予国弓削嶋庄』(日本塩業大系)で確認すると、三三五六の端裏も「右大臣」となっていた。しかたなく、東寺百合文書WEBで確認すると、「右大臣」であった。五味氏の論文で伊予国が基房知行国であると述べられていなかったのはこのためであった。
 そこで気を取り直して考えると、『顕広王記』以外の関係史料を欠いているが、伊予守藤原盛隆(父顕時が知行国主であろう)と丹波守藤原資頼(知行国主は祖父経定の異母弟右大臣経宗ヵ。両者の間には二〇年近い年齢差がある。資頼の父頼定は永暦元年二月に天皇親政派の中心である叔父経宗とともに解官されており、その後復帰したが、この時点では正四位下加賀権介であった。)の間で相博が行われたと考えられる。ただし、二〇日余で資頼は越中守定隆(清隆の子だが、こちらも経宗の知行国)と相博している。

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