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2020年6月 8日 (月)

藤原季能とその母

 俊盛の子として唯一知られている季能について補足する。当初は父俊盛の知行国、父が後白河院庁下文の署判者に加わるようになった時期には後白河院分国の国守を務め、治承三年一一月の平家のクーデターで解官されたが、Wikipediaでは平清盛の子基盛の娘を室としている関係で、院と平家の仲介役も務めたとする。確かに解官の一月後には復帰し、父俊盛が務めた内蔵頭に補任され、寿永二年四月には非参議公卿となり、次いで右京大夫と大宰大弐、兵部卿を務める一方で、多子の大皇太后宮大夫にも起用されている。大皇太后宮政所の中心となり、多子の死没(建仁元年一二月)まで仕えた。
 以上はその経歴であるが、ここではその母について述べる。従三位権中納言源雅兼の娘である。季能が一一五三年の生まれなので、その母は一一三〇年前後の生まれで、俊盛より一〇才程度若かったと思われる。雅兼の晩年の子雅頼、定房の同母(源能俊の娘)姉妹である可能性が高い。雅頼は父死亡時に十七才で雅定の後継者となり、正二位権中納言に進んだが、早くから鎌倉幕府と連絡を取っており、その家臣には幕府の初代評定衆の一員となった中原親能がいた。三才下の定房は年上の従兄弟雅定の養子となり、従二位権大納言にまで進んでいる。季能の一一八〇年代以降の昇進に、母の兄弟の存在は大きかったと思われる。
 母その人も、治承四年七月には雅兼の娘「内侍甲斐」が月次祭のため、福原京から京都に派遣されており(『山槐記』)、高倉天皇や中宮徳子に内侍として仕えていた可能性が高い。今回の派遣役については内侍でも希望するものが多かったが、そうした中で選ばれていた。

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