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2020年6月 5日 (金)

八条院関係者と知行国1

 美福門院の分国については五味文彦氏の研究で明らかにされたが、それ以降の目立った進展はみられない。死亡時の女院分国は①越前(国守季能)、②若狭(国守隆信)、③丹後(国守実清)、④周防(国守隆輔)であった。②の隆信は女院の乳母伯耆と夫藤原親忠の間に生まれた女院女房加賀の子であった。加賀はその後、藤原俊成と再婚し定家を産んでいる。残る三人は女院の甥③と甥俊盛の子①④である。五味氏は女院分国は父長実の知行国の継承分を基本としつつ四ヵ国であったと評価した。これに対して八条院の分国とされているのは丹後(国守長経=実清の子)のみであり、時期的にも数量的にも限定され、膨大な庄園=八条院領の相続者との評価との間にズレが生じている。以下では、八条院関係者の知行国を含めて検討したい。知行国主の上に八条院がいる可能性も残されている。
 ①季能はその後、丹後、讃岐、遠江と遷任したが、美福門院の近臣であった父俊盛が知行国主であった。その後、遠江国は弟盛実に国守が交替し、季能は後白河院分国である周防守となり、その後も院分国である讃岐、越前の国守を歴任し、平家のクーデターで解官された。最初に後白河院分国となるまでの周防国に注目する。周防国は女院の死後一年余り隆輔が国守に在任し、応保二年(一一六二)正月に源時盛に交替している。父師行が知行国主と考えられる。父師時と異母弟師仲が待賢門院の近臣であったのに対して、師行は保延四年(一一三八)三月以降の鳥羽院庁下文の署判者にみえ、院庁別当であった。保延七年には播磨国田原庄を鳥羽院庁に寄進し、永治元年には丹波国多紀庄を歓喜光院に寄進し、翌二年から二期八年間、長門守を務めている。保元の乱後は、保元二年(一一五七)に子有房が但馬守、応保二年には子時盛が周防守に補任されており、師行が知行国主であったと考えられる。この時期の師行は後白河院ではなく、美福門院と八条院の近臣であった。時盛の後任の周防守は仁安二年(一一六七)正月に見任している藤原季盛で、父俊盛が知行国主であった(俊盛は内蔵頭であったが、長寛二年二月八日には平教盛が補任されている。俊盛が内蔵頭を辞して子季盛を周防守に任じた可能性が高い)。仁安二年正月に大宮権大夫俊盛が子である讃岐守季能と周防守季盛に協力させて造営した東山御所に後白河院が移渡している。これにより季盛は重任功を認められた。
 仁安三年八月一二日には高階信章が周防守に補任されている。信章は系図にはみあたらないが、藤原経家等との複数のトラブルを起こしたことで周防守を解任し、叙籍されたためであろう。高階清章の娘が藤原実清の室となり、長清・長経を産んでいる。清章の兄弟盛章の娘が八条院女房三位局であり、女院の養子となっていた以仁王の室となっている。以仁王の死後は九条兼実との間に良輔(1185-1243)を産んでいる。清章の子が信章であろう。信章が濫妨行為により解任されると、師行の嫡子有房が周防守に補任された。以上のように美福門院没後の周防守は八条院の関係者であった。
 美福門院没後の俊盛の知行国(除周防)を確認すると、③丹後守実清の後任となったのは俊盛の子季能であった。季能は長寛二年(一一六四)には讃岐国に遷任し、嘉応元年には遠江守に遷任した。いずれも父俊盛の知行国である。安元三年(一一七七)に季能は後白河院分国周防に遷任したが、俊盛の知行国遠江は継続し、新たに子盛実が国守に補任され、養和元年(一一八一)三月に蓮華王院御塔供養功で重任したことが確認できる。次いで盛実は常陸介に遷任し、さらに寿永二年(一一八三)一二月二二日には備後守に遷任しているが、この両国は俊盛の嫡子秀能の知行国であった。が、俊盛の知行国は以上であるが、注目すべきは、清盛が春宮大夫に転じるのと時を同じくして、仁安元年一〇月に俊盛が大皇太后宮(多子)権大夫に補任されていることである。

 

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