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2020年6月19日 (金)

藤原重頼と基房知行国1

 今回、藤原重頼について検討するのは、佐渡守惟頼(国主基房)の前任者であるのが理由である。重頼については国文学研究者中村文氏の論考(「埼玉学園大学紀要」人間学部篇16、2016)がある。丹念に関係史料を収集して述べられているが、政治史的側面がやや弱いうらみがある。それは、重頼の父重方、妻二条院讃岐とその子について言及されているが、その大前提として、勧修寺流顕隆(夜の関白)の子顕能がその祖父であることが認識されていない。顕能は顕頼の同母弟(一三才下)であるが、その妻が鳥羽院と待賢門院の第二皇子(六才で早世)の乳母と女院女房になっているように、鳥羽院だけでなく、女院との関係が深かったが、保延五年(一一三九)に三三才で死亡した。
 その二男重方(生年不詳)が木工助・崇德院蔵人から近衛天皇の蔵人に補任されたのは、父の死から三年後の康治元年六月だった。次いで一〇月には右近将監となり、翌二年四月に叙爵している。久安四年(一一四八)八月一四日には内大臣藤原頼長の妻幸子(德大寺実能娘、公能同母=顕隆娘姉)の三位方家司が定められているが、政所別当に「散位従五位下藤原朝臣重方」、侍所別当に弟「散位従五位下藤原朝臣顕方」がみえている。ともに散位で従五位下にとどまっているように、その昇進は早くはなかった。一方では伯父顕頼流との関係は密で、顕頼の娘が重方の室となり、重方の娘が顕頼の嫡孫光雅の室となっている。また、顕能の姉妹が白河・鳥羽両院近臣藤原清隆の室となり、次いで顕隆の異母弟(母は法成寺上座隆尊の娘)朝隆に再嫁し、朝方・朝雅(後に親雅)を産んでいる。重頼の母は清隆の娘である。
 以上が、重方が鳥羽院判官代となり、後白河天皇の中宮となった忻子の中宮権大進となった背景である。忻子は公能の娘で、その同母(藤原俊忠の娘豪子)兄弟には実定・実家・実守・公衡がおり、近衛天皇皇后多子も同母姉妹であった。そのため後白河院政初期には二条天皇とその子六条天皇との関係が強かった。二条天皇の外戚(母の同母弟)藤原経宗も清隆の娘を室とし、嫡子頼実をなしていた。二条院没後はその実務能力を買われて弁官を歴任し、後白河院政のもとで右大弁にまで昇進した。
 中村氏が述べているように、久寿二年(一一五五)九月に後白河の子守仁(二条)が立太子された際に東宮(こちらは春宮の表記と異なる)傳実能、春宮権大夫経宗、春宮亮親隆(朝隆の同母弟)、春宮大進惟方(顕頼の子)、春宮権大進定隆(清隆の子)とともに、重方の子正六位上重頼が「春宮権少進」に補任されている。応保二年(一一六二)一〇月に父重方の譲りを受けて宮内権大輔となり、永万元年(一一六五)には日向守から佐渡守に遷任している。中村氏は『国司一覧』の記述から重頼の日向守補任を永万元年とするが誤解である。この永万元年七月二五日に二条院が没しており、これが重頼の転換点となる。前述のように、二条派であった外戚経宗もこれ以降は後白河院との対立を解消している。

 

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