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2020年6月 8日 (月)

松殿基房の知行国2

 播磨守補任時の邦綱は四一才で正四位下であるが、前年四月に伊予守に補任され、八月には右京大夫を兼任していた。伊予守の前任の越後守までは藤原忠通の知行国としてよいが、伊予守は独立した国守であったとすべきである。邦綱は永万元年七月一八日には播磨守を辞任して、子隆盛を備前守に任じ、知行国主となっている。摂関家有力家司邦綱は知行国の国守から独立した国守となり、次いで知行国主となった。播磨守辞任の直後には蔵人頭に、翌永万二年正月には参議に補任され公卿となっている。ということで、基房最初の知行国播磨では藤原隆教(忠隆の嫡子だが早世)の嫡子隆親が国守であった。次いで、兄基実が永万二年七月に急死したため、基房が摂政となった。これに伴い新たな知行国に加わったのが丹波国で、藤原惟頼が国守となったが、約一年で相模国知行国主藤原成親と相博した。丹波守には相模守盛頼(成親同母弟)が遷任したが、相模守に補任された人物は不明である(惟頼は前丹波守と呼ばれている)。播磨国の下限を示す史料はないが、承安元年(一一七一)一二月に基房の知行国が大宰府に移り、公卿家司藤原重家が大弐に補任されたと思われる。次いで、安元二年(一一七六)には重家の子顕家が三河守に補任されているが、五味氏の説くように、基房の知行国であった。これに対して二ヵ国目の知行国の確保は容易ではなかった。前丹波守惟頼が承安四年正月に佐渡守、安元二年正月には隠岐守に補任されているが、連続しての確保は困難であった。摂関家領の大半が清盛の娘で基実の後家となった盛子が相続し、基房がその一部しか獲得できなかったのと同様であろう。そして、治承三年一一月の平家のクーデターにより、三河守顕家と隠岐守惟頼はともに解任され、三河国は中宮徳子の分国に、隠岐国は具体的人名は不明だが、平氏関係者の知行国となった。
 とりあえず、ここまでとする。五味氏との違いは、播磨守邦綱は独立した国守であり、その後任隆親から播磨国が基房の知行国となったことと、前述のように、五味氏が知行国主藤原顕時の国守とした丹波守藤原惟頼を、佐渡、隠岐を加えて基房知行国の国守とした点である。書き始めた時点では五味氏はなぜ伊予国を基房の知行国とされなかったのかという疑問からスタートしたが、この点は『平安遺文』の誤植とそれを踏襲した『国司一覧』の誤りというあっけない結末となった。

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