koewokiku(HPへ)

« 藤原重頼と基房知行国2 | トップページ | 末法な日本 »

2020年6月19日 (金)

藤原重頼と基房知行国3

 承安二年二月には平清盛の娘で女御であった徳子が中宮に立后されたが、権大夫平時忠、権大進宗頼(顕頼嫡子光頼の子)とならんで少進佐渡守藤原重頼がみえる。翌三年四月に高倉天皇の賀茂行幸の勧賞として、重頼が正五位下に叙されたのは父重方の譲りを受けたものであった。次いで六月一二日には清盛の妻で徳子の母である時子が八条持仏堂の供養を行った際に、二〇余の関係者が集まったが、その中に右中弁重方とその子重頼もいた。権右中弁吉田経房は両者と時子の関係を知らず、或人に尋ねたが、由緒が不明だとの答えだったと記している(『吉記』)。
 時子は平時信の娘であるが、異母妹に高倉天皇の母滋子がいた。滋子の母は藤原顕頼の娘祐子で、光頼・惟方・成頼の同母(藤原俊忠の娘)姉であった。重方・重頼は時信の正室祐子との関係で供養に参加していたのである。以上により、藤原重頼が国守であった時期の佐渡国が松殿基房の知行国であった可能性は高くなったと言えよう。基房知行国の連続状況は、永万元年から承安四年(一一七四)正月までが佐渡守重頼、その跡を継承したのが惟頼で、安元二年(一一七六)正月に隠岐守に遷任し、佐渡守には中原宗家の子尚家(親子関係は五味氏による)が補任された。隠岐守惟頼は治承三年(一一七九)一〇月見任が確認できるが、直後の一一月の平家のクーデターにより知行国主が基房から平家関係者に交替したと考えられる。その後、基房自身は配流処分が解かれて翌治承四年一二月には都への帰還を許され、過去に基房知行国播磨の国守であった藤原隆親(播磨国の後の遷任は史料を欠き不明)が治承四年一二月に河内守に補任されており、惟頼が隠岐守に復活した可能性もああるが、詳細は不明である。前回確認した永万二年(一一六六)七月補任の丹波守惟頼からスタートした基房知行国は翌年、相模国に遷り(藤原有隆、源通定、有隆)、次いで承安元年(一一七一)一二月に大宰府(大弐藤原重家)に遷り、さらには安元二年(一一七六)補任の三河国(重家の子顯家)が平家のクーデターまで続く。
 重頼と高倉院皇女で斎院となった範子内親王との関係の背景として中村氏が二条院関係者が徳子所生ではない皇女の周辺に集まるとの観点を示されているが(徳子と範子の関係は良好である点は源有房の記事で述べた)、それとともに重頼の祖父顕能以来のつながり(当ブログでは待賢門院・崇德院流と呼ぶ)がある。重頼と高倉院の母滋子との関係である。治承三年一一月三日に藤原朝方は権中納言補任の拝賀のため、各所を訪れているが、そこに重頼が扈従したことも同様である。朝方の母は顕隆の娘であり、朝方の妻の外祖父は藤原俊忠であった。俊忠の娘に德大寺公能室豪子や顕頼室忠子がいたのは前述のとおりである。

« 藤原重頼と基房知行国2 | トップページ | 末法な日本 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 藤原重頼と基房知行国2 | トップページ | 末法な日本 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ