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2020年6月18日 (木)

松殿基房の知行国3

 松殿基房の二ヵ国目の知行国の確保は容易ではなかったと書く一方で、藤原重家が太宰大弐になるまで、藤原隆親が播磨守であった可能性があるとの説を述べた。院近臣藤原成親や後述の顕時の例をみれば、基房の知行国は現在判明している以上にあったはずである。大国播磨については、仁安三年(一一六八)から、治承二年(一一七八)に平宗盛の知行国となるまでの一〇年間の国司に関する史料がない。そうした中『兵庫県史』史料編中世四を眺めていたら、『播州増位山随願寺集記』の中に、「仁安三年に太政大臣平清盛が知行国主となり金堂・法華三昧堂の造改を始め、嘉応元年に造営が完了した」ことが記されていた。一次史料ではないが、あってもおかしくない内容である。その成否は確認不能だが、承安二年(一一七二)に重家が大宰大弐に補任される以前の基房の知行国の問題は振り出しに戻る。本ブログでは永万二年(一一六五)に丹波国が基房知行国となり、翌年に相模国知行国主藤原成親との間で相博したとの説を示している。以前は相模国守としてみえる人物と基房の関係が想像できなかったが、この点を今一度追究してみたい。
 仁安二年五月一九日に相模と丹波が相博した後に相模守として確認できるのは、嘉応元年(一一六九)二月から六月にかけて見任している藤原有隆、嘉応二年閏四月に見任している某通定、承安元年(一一七一)一一月に再度見任が確認できる有隆である。大宰府が基房の知行国となったのは承安元年一二月であり、藤原有隆と某通定が摂関家関係者であれば、基房知行国が相模から大宰府に遷ったことになる。五味氏は丹波守藤原惟頼の前任者藤原盛隆と相模守有隆がともに顕時の子であることから、丹波国が顕時の知行国で、盛隆、惟頼が国守となったとされた。ただし、惟頼と顕時の関係は不明であるとも述べられた。五味氏の関心は丹波国が摂関家知行国であったかどうかにあったので、有隆が国守であった相模国もまた顕時の知行国であったとは述べられていない。一つには顕時自身が相博の直前の三月十四日に死亡していることもあろう。
 顕時は勧修寺流長隆の子である。長隆の同母兄為隆、顕隆は公卿となったが、長隆は因幡守在任中の天永二年(一一一一)五月に二九才で死亡している。その時点で顕時(当初は顕遠)はわずか二才であり、その出世は従兄弟である為隆、顕隆の子達に比して遅かった。蔵人に補任されたのが二二才時で、翌年に叙爵し、摂津守に補任されたのは二五才となった長承三年(一一三四)一一月であった。その長子行隆は右少弁藤原有業の娘を母としたが、外祖父有業も行隆が三才であった長承元年に四五才で死亡している。叙爵の年齢は不明だが、二八才であった保元二年(一一五七)一〇月に従五位上に叙されている。次子盛方は行隆より七才年下で、平忠盛の娘を母として産まれた。二〇才で中宮権大進に補任され、父顕時が死亡した仁安二年には三一才で正五位下民部少輔であった。永暦二年(一一六一)には行隆、盛方ともに後白河院庁下文の署判者=院司としてみえる。
 有隆の同母兄(母は藤原信輔の娘)盛隆は正六位下であった久安六年(一一五〇)一二月の除目で修理亮に、次いで仁平四(一一五四)年正月に甲斐守に補任されている。保元二年一〇月には甲斐守として内裏南廊を造営した功で従五位上に叙せられている。異母兄行隆は同じ日に臨時で従五位上に叙されていた。盛隆もまた永暦二年には後白河院庁下文の署判者=院司としてみえ、仁安二年一月には女御として入内した滋子の家司となっている。盛隆は一方では後白河院の女御琮子の侍となっており、仁安二年二月に琮子が八条殿から三条殿に渡御した際には、隆盛も供奉しているが、その後、その職を解任されたため、琮子の同母弟である権大納言三条実房に取りなしを依頼した文書も残っている(『愚昧記』紙背文書)。

 

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