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2020年6月 4日 (木)

皇宮后権亮光能1

 藤原光能については何度か言及しているが、『公卿補任』の記事を検討したい。当方が利用しているのは国会デジタル版『公卿補任』と編纂所大日本史料総合データベースで閲覧できる『日本史総覧』作成のための手書き史料である。前者は参議補任までを記し、後者は死没するまでの経歴を示している。最も大きな違いは、仁安三年(一一六八)三月二三日に光能が補任された職であり、前者は「皇太后宮権亮」とするのに対して、後者は「皇后宮権亮」とある。皇太后とは子である高倉天皇が二月に即位したことをうけて皇太后に立后された平滋子であり、皇后宮とは後白河院の皇后忻子である。滋子を立后するため、皇太后であった呈子に院号宣下がなされて九条院となった。
 現在の国史大系本は確認していないが、それに依拠する可能性が高いWikipedia「藤原光能」の項では「皇后宮権亮」としている。前にアップした「藤原光能について」では後者を採用していたが、題名からわかるように後者が正しいので訂正する(今回の記事そのものを、最初にアップしたものから大幅に修正した)。厳密に言えばもう一ヶ所違いがある。同年八月四日に正四位下に叙せられた記事で、前者は「朝覲行幸賞・右少将・亮」とし、官職に変更がなかったことを記すが、後者は「朝覲行幸賞、右中将、皇太后宮権亮」とやや詳細に記している。これは「右少将」が正しく「右中将」は誤りである。
 光能は治承元年(一一七七)九月六日に皇太后宮権大夫に補任されている。この時点では滋子は院号宣下をうけて建春門院となり、さらには病没している。清盛の娘徳子が高倉天皇に入内して中宮になったことにより、中宮育子が皇后宮に、皇后宮忻子が皇太后宮に変更された。光能はずっと忻子の役人であり、叔父にあたる皇太后宮大夫藤原俊成が出家したことに伴い、権大夫朝方が大夫となり、光能が権大夫になった。一般的には光能は後白河院の寵臣の一人とされるが、ある意味で後白河の即位とともに中宮とされ、その後、皇后をへて皇太后になりながらほとんどスポットライトが当たっていなかった忻子の役人となっている。
 忻子(德大寺公能の娘)が保元元年(一一五六)一〇月に中宮となった際の大夫は当時の閑院流で鳥羽院に最も重用されていた三条公教であった。翌年九月に公教が内大臣に昇進したため、大夫は公教の叔父季成に交替した。皇后宮となっても変わらなかったが、長寛三年(一一六五)二月に季成が没したため、忻子の五才下の同母弟である德大寺実定(多子の一才上の同母兄)が大夫となった。次いで、嘉応二年(一一七〇)七月には忻子の母の兄弟藤原俊成が大夫となった。前述のように光能は朝方を補佐する権大夫となったが、治承三年(一一七九)一一月の平家のクーデターで参議・右兵衛督とともに権大夫も解官された。治承五年三月には朝政に復帰したが、権大夫となることはなく、養和元年に空席だった権大夫に起用されたのは、俊盛の従兄弟で高松院の側近であった隆輔(その後季隆に改名)であった。

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