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2020年6月13日 (土)

藤原俊盛・長清の補足1

 俊盛の父顕盛は白河院の権勢を背景に鳥羽院の要望を無視したため、白河院の没後、鳥羽院により排除され、失意の中で死亡した。長清の父長輔は顕盛の同母(郁芳門院女房)弟で、異母妹得子(美福門院)に登用されたのはこの二人の子達である。長実には多数の室がいたようだが、その娘には中御門宗能の室となった女性もいた。宗能との間に嫡子宗家を産んでいるが、宗能娘で藤原季行の室となり、次いで美福門院の三女姝子内親王の乳母となった女性は同母姉である可能性が高い。その女性が季行の嫡子定能を産んだ時点で宗能は一〇才である。中御門氏は本来、摂関家ならびに待賢門院との関係が深かったが、鳥羽院は待賢門院系の人々を意図的に登用し、美福門院とその子の将来の支持基盤を固めた。蔵人頭と参議に短期間で昇進した藤原清隆も同様の例である。
 長輔は長承三年(一一三四)二月に正四位下に叙せられるまでは順調であった。法勝寺金堂被供養金泥一切経の供養が行われたがことによる勧賞であったが、この日藤原成通(宗通子、従三位)と家長(家保子、正四位下)が同様に鳥羽院御給で叙されている。一方、藤原通基(基頼子、正四位下)は待賢門院給、信輔(経忠子、正四位下)は前斎院統子給であった。同年八月に長輔は院近習を止められ、長親(備後)と時通(伯耆)は国務を一時的に停止された(『長秋記』)。姉である故左金吾(左衛門督)妻も家地・庄園資財雑具等を収公されたとあるが、これは右金吾の御記で、白河院の寵臣藤原宗通のことであろう(左衛門督=西園寺通季であり、前の部分は間違い)。長実の子時通が宗通の養子に入り、宗通死亡により時通が国守であった因幡が長実の知行国となったのはそのためであろう。すでに死亡している顕盛(俊盛の父)の蔵からも用物が召し取られた。この部分に登場する顕頼卿も没収されたとの解釈(角田文衞氏が述べ、五味文彦氏以下の研究者が支持)が誤りであることは前に述べた通りである。また、この処罰が一六才の崇德天皇の意向によるとするのもあり得ない解釈である。得子を寵愛するにあたり、その兄弟による介入を防ぐため、鳥羽院が意図的に行った処罰であった。
 その後、顕盛と長輔の孫のみが取り立てられたのは何故であろうか。時通や長親については現時点ではそのような事例は確認されていない。Wikipediaでは保延六年(一一四〇)一一月二一日に長輔が昇殿を認められたことを復権とするが、前年五月一八日に得子が躰仁(近衛)を産み、六月二七日に若宮入内が行われた際に、殿上人として清隆とともに長輔がみえ、清隆の嫡子出雲守光隆とともに「院殿上人」との注記がある。長輔の場合も長承三年に院近習を一時的に止められたが、長親・時通が間もなく国務に復帰した(ただし、その任を退任した後、官職に補任されることはなかった)のと同様、鳥羽院殿上人に復帰していた。崇德天皇になってからはその末期にようやく昇殿を認められ、保延七年四月八日に右馬頭に補任(妻の父清隆が内蔵頭を辞任して申任)されているが、「崇德が昇殿を止めた」とのWikipediaの記述は誤りである。長輔は鳥羽天皇から昇殿を許され、退任後は院殿上人であった。ただし得子の寵愛開始時に鳥羽院により悪乗り防止の処罰を受けていた。

 

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