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2020年6月 1日 (月)

摂津国富嶋庄2

 重家後の摂津守は藤原俊経、惟雅、貞憲、盛頼と続いて、平治の乱時の源頼憲となる。仁平三年九月二六日に父行国が死亡すると、その遺産などをめぐり兄と摂津国で合戦をしている(『本朝世紀』)。このメンバーの中で右衛門督を知行国主とした可能性が大きいのは、重家で、右衛門督とは二一才年上の従兄弟で鳥羽院の寵臣であった家成である。家成の母は堀河・崇德両天皇の乳母であり、待賢門院との関係が深かったが、大治四年に死亡している。女院の死後家成は、鳥羽院の寵愛を受けた美福門院との関係を強めている。家成は鳥羽院皇后となった泰子(忠実娘、高陽院)の皇后宮権大夫も務めており、摂関家との関係も維持していた。解状の具書として待賢門院庁下文案二通が副進されているように、当初、富嶋庄は待賢門院領として立券された。それが女院の死後、国衙領に戻されたのである。
 家成は仁安四年五月七日に病により急死しており、これを解状では「夭亡」と記したのだろう。一年前の仁平三年四月六日に摂津守は重家から俊経に交代している。俊経のもとで再び富嶋庄は庄園として認められたのだろう。ただし、待賢門院関係ではなく、鳥羽院・美福門院の御願寺である歓喜光院の末寺弘誓院領として。『地名辞典』では言及されていないが、富嶋庄の初見史料は安元二年二月の八条院領目録ではない。久寿二年一二月二九日太政官符案(随心院文書、『平安遺文』未収録だが、『兵庫県史』史料編・中世八にあり)であり、この時点で弘誓院領の一つとしてみえる。これとは別に歓喜光院領にも摂津国富嶋庄がみえるが両者は所在地を含めて別物である。
 以上、知行国制を考える上で、鳥羽院の寵臣藤原家成とその従兄弟重家の関係を明らかにできた。富嶋庄は待賢門院領から、一旦整理をされた上で、美福門院とその娘八条院の庄園となった。このような例は外にもあろうが、その変更の原因は様々ではないか。それと同様に、待賢門院関係者が後に八条院関係者としてみえることも珍しくはなかろう。待賢門院・上西門院母娘と美福門院・八条院母娘の関係も対立の面のみみると、より重要な点を見落としてしまう。その一つの見方が「非後白河院」というものである。後白河も待賢門院の子ではあるが、結果としてそれまで同居していた同母兄崇德を陥れることになったため、待賢門院流の人々には後白河院とは距離を置いた人物も少なからずいた。そのあたりを見極めないで、反平家=後白河院方との公式で政治史をみると、誤った理解を生みかねない。

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