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2020年6月 7日 (日)

藤原俊盛の補足

 なぜか認識していなかったが、永万二年(一一六六)一月一〇日後白河院庁下文の署判者の中に俊盛(従三位藤原朝臣)の名が見えていた。前年六月には二条天皇が死亡しており、ギクッとした。長寛元年一一月四日八条院庁下文には「内蔵頭藤原朝臣」として俊盛が近江守藤原実清とともに署判していた。
 『公卿補任』長寛二年(一一六四)の項には、一月二六日に従三位に叙せられ公卿となり、「行幸院、院司」と付記されている。意味が不明確なので、確認すると二条天皇が法住寺殿の後白河院のもとに朝覲行幸を行ったことによる勧賞である。後白河院が年初の御幸を行ったのは一月四日であった。過去の叙位をみると久安六年(一一五〇)正月二〇日には近衛天皇の朝覲行幸の勧賞として正四位下に叙せられていた。「美福門院御給」とあり、女院との関係によるものであった。長寛二年の「院司」とはすでにこの時点で後白河院司であったことを示すものであろう。官職の補任については、大国讃岐の国守に次いで、応保二年一〇月二八日に内蔵頭に補任されていた。長寛二年二月八日には平教盛が内蔵頭に補任されており、これ以前に俊盛は庶子季盛を周防守に任じるため、内蔵頭を辞任していた。
 Wikipedia「藤原俊盛」の項には、美福門院の死後、後白河院の側近に転じ年預別当となり院の雑事を担当し、その功で従三位に叙せられたとあるが、どこまで確認できるであろうか。参考文献には①橋本義彦「藤原俊盛」(『日本史大事典 5』1993年)、②五島邦治「藤原俊盛」(『平安時代史事典』1994年)、③佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」(『日本史研究』598号、2012年)があげげられていた。②は未見だが、③には関連する記述は確認できず(書かれている内容にも感心するものなし)。①には年預別当となり院の雑事をつかさどったことのみ記されていた。
 俊盛は鳥羽院政期にも院の御所の造営により遷任功を得ており、地方支配には精通していた。後白河院政期では、仁安二年(一一六七)正月に移渡した院御所造営を讃岐と周防の知行国主として請負っている。また移渡の儀式では五菓を年預別当=大皇太后宮権大夫俊盛が調進している。全ての史料を確認していないが、美福門院の没後すぐに後白河院の側近となったとの部分は確認できなかった。当初は美福門院の娘八条院庁の別当であったが、二条天皇の死により主導権を得たい後白河が手腕のある俊盛を取り込んだのではないか。八条院のもとには、俊盛と同様に美福門院の甥である藤原実清もいた。応保元年(一一六一)一二月の院号宣下の際に、当時、宮中の執事であった実清の処遇が問題となっている。五位判官代・執事か、あるいは五位別当か、さらには違例ではあるが臨時に四位に叙して別当にするかであった(成頼卿記)。結局は五位判官代であったが、実清の実務能力の高さを示すものだろう。同じ甥ではあるが、美福門院が死亡した時点で、実清は二三才であるのに対して俊盛は四二才と一世代近い差があり、一九才である子季能に近かった。ちなみに八条院は実清より三才年上であった。八条院庁は次第に実清が中心となり、俊盛は二条天皇、後白河天皇を含めて活動の範囲を広げ、その結果、内蔵頭に補任されたのだろう。俊盛が永万二年一〇月二一日に大宮権大夫に補任されたのも、同様の分脈で理解できるのではないか。

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