koewokiku(HPへ)

« 多子・呈子・姝子1 | トップページ | 皇宮后権亮光能1 »

2020年6月 3日 (水)

多子・呈子・姝子2

 これに対して前年に院号宣下を受けた暲子は、八条院庁別当に雅通と美福門院の従兄弟家成の子隆季と家明隆輔の弟家明が並び、運営の中心となったのは隆輔の同母弟実清であった。「八条院」の名も、女院が京・八条の実清の館を御所としたことに由来している。
 美福門院領は八条院と高松院に分割して相続されたと思われるが、安元二年二月の八条院領目録が残っているのみで、その四ヶ月後に急死した高松院領の実態は不明である。文治二年に御家人が地頭となり年貢未進がみられる下総・信濃・越後三箇国の庄園の注文が作成されているが(『吾妻鏡』)、越後国青海庄と吉河庄に高松院御領との注記が付されている。青海庄にはこれ以外の庄園領主に関する史料はみえないが、吉河庄は年月日未詳大弐尼奉書(平安遺文四七一八)と永万元年八月一四日高松院令旨(同四八一二)が残っている。ともに『根来要書』に収録されているが、前者については『角川地名辞典』(国立歴博データベースに引用分)では保延六年、編纂所平安遺文データベースには永治二年とされているが。『要書』には源為義の保延六年の誓状と永治二年ヵとされる書状が含まれているが、前者と後者の二通が一連のもの(永万元年)との理解も可能で、年代比定の根拠は不明である。大弐尼は高松院姝子の乳母であった季行の妻(中御門宗能の娘)であろう。季行は保元三年三月に大宰大弐に補任され、八月に子隆行が安芸守に補任されるため大弐を辞任している。よって、大弐尼奉書は保元三年以降のものとなり、前述のように永万元年のものである。
 越後国における庄園制の形成において、鳥羽院近臣藤原家成が保延三年から仁平四年(一一三七~五四)にかけて知行国主であったことが指摘されており、前者を棚上げした上で、この時期に家成を仲介として美福門院に𠮷河庄が寄進・立券されたと考えることは可能ではある。吉河庄は高松院により、鳥羽院が造営し長承元年に落成供養が行われた大伝法院に寄進された。八条院領を構成する御願寺領ならば、高松院の死により八条院領となった可能性が大きいが、それとは別の扱いを受け、後白河院の大庄園群である長講堂領の建久二年所領目録にみえている。
 永暦元年九月の伊実の死亡後は、大夫とともに空席であった皇太后宮権大夫に、応保二年四月に平清盛が補任され、伊実の子清通が権亮に補任されている。天皇親政を目指す二条が育子入内で摂関家と連携して後白河を押さえ込む中、清盛は中立的立場を選択し、フリーハンドを得たともいえる。   
 二条天皇は永万元年(一一六五)六月、自らの病気のため幼い六条天皇を即位させたが、七月に二三才で死亡した。前述の高松院令旨はその翌月のもので、天皇の死により高野山大伝法院に寄進したのだろう。これにより、後白河院と女御平滋子の間に産まれた憲仁を皇太子とする動きが強まった。翌永万二年一〇月には実現し、皇太后宮(呈子)権大夫であった平清盛が春宮大夫に遷任し、二ヶ月後には子重盛と交替している。清盛の後任として皇太后宮権大夫となったのが頼盛であった。頼盛の立場は依然として後白河院とは距離を置いている。

 

« 多子・呈子・姝子1 | トップページ | 皇宮后権亮光能1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 多子・呈子・姝子1 | トップページ | 皇宮后権亮光能1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ