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2020年6月 5日 (金)

八条院関係者と知行国3

 建久七年一〇月には大和国礒野郷住人義弁法師が多武峰御墓守長紀助頼を殺害する事件が起き、役人が逮捕に向かったところ逃亡していた。この義弁法師は地頭仲教入道家人と号したり、興福寺東西堂舎人と称していた。仲教が幕府から礒義郷地頭に補任されていたことがわかる。仲教と広元娘の子である教厳は六条若宮別当法師と記されている。初代別当が広元の弟季厳で、教厳は正治二年(一二〇〇)閏二月に二代目別当に補任されている(「六条八幡宮造営注文について」)。
俊盛の嫡子季能は永暦元年(一一六〇)に一八才で美福門院分国越前の国守となり、女院の死後は父俊盛の知行国の国守を務めていたが、鹿ヶ谷の陰謀が発覚した安元三年(一一七七)正月に突如、遠江から新たに後白河院分国とされた周防の国守となった。周防守はそれまで八条院関係者が務めており、二五才の季能もその関係者であった。ところが、出雲守に起用していた北面出身の寵臣藤原能盛の国替(大社造営が現実の課題となったため)が必要となり、わずか半年で能盛に玉突きされる形で讃岐守に遷任した。讃岐国はそれまで建春門院の分国であったと考えられるが、女院の死が契機となった鹿ヶ谷の陰謀後、後白河院分国とされ、季能が遷任した。次いで平重盛が死亡したことで、その知行国越前を奪って、季能を遷任させ、これが平家のクーデターの原因の一つとなり、クーデターで季能は解官された。季能二七才である。季能には人事を拒否する選択肢はなく、季能は本当に後白河の寵臣だったのだろうか。以前述べた、藤原光能と同様、後白河院が使える人物として利用したのみではないか。寿永二年(一一八三)末には三ヶ国の知行国主であったが、翌年には復活した父俊盛に知行国主を交替している。季能の室が清盛の次男基盛の娘であったのは父俊盛が意図して行ったものであろう。
 結果として季能は正三位非参議にとどまり、極官は大宰大弐ないしは兵部卿であろうか。その一方で、四八才であった正治二年四月一日に父が権大夫を務めた大皇太后宮多子の大夫に補任され、建仁元年(一二〇一)一二月に多子が死亡するまで務めている。大宮大夫は長らく空席で、権大夫を葉室光頼の子光雅が一三年間務め、正治二年正月二二日に大夫に昇格したが、直後の三月六日に辞任してしまった。四月一日に後任となったのが季能であった。

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