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2020年6月

2020年6月30日 (火)

明日から後半へ

 将棋の藤井七段が八大タイトルの一つ棋聖戦で二連勝し、あと一勝となった。渡辺棋聖は昨年の好調さが影を潜めているが、この辺は紙一重なのだろう。渡辺氏は昨年一二月二〇日に佐藤和俊七段に敗れるまでは、二七勝四敗であったが、その後は一四勝一一敗と別人のようになった。今年は五月一日に勝利した後対局がコロナ対応で中断し、再開後は棋聖戦が二敗、名人戦が一勝二敗である。
 昨年の好調時は、名人戦の相手豊島氏に四敗(三勝)したのみで、その他の棋士には全勝であった。意図してAIへの対応を行わなかったのを、世間並みに対応したことで調子が上向いたとのこと。二〇一七年度は二一勝二七敗と負け越しだったが、二〇一八年一一月一日の谷川九段戦で勝利すると、年度末までは二六勝三敗であった。三敗の相手は菅井、藤井、広瀬であった。その好調が約一四ヶ月続いたが、それ以降は不調とまではいえないが、調子を落としている。二〇〇八年の竜王戦では羽生氏を相手に三連敗後四連勝して防衛したことが有名である。囲碁では複数例(林海峰、趙治勲)あるが、将棋では唯一例である。
 逆転勝利した二〇〇八年の記録をみると、それまで一六勝一四敗であったのが七連勝して竜王も防衛したが、防衛後は四勝七敗で、トータルは二七勝二一敗であった。渡辺氏の印象(当方将棋の内容はわからない)は、二日制の七番勝負に強いというものであった。7番勝負は竜王戦、名人戦、王位戦、王将戦であるが、挑戦者になるまでは一日制であり、竜王戦以外のタイトル戦には登場していなかった。以上を踏まえると、藤井棋聖誕生の可能性は九九%ではないか(王位戦第一局も木村氏に勝利。木村氏は昨年、予想をくつがえし豊島王位から四勝三敗で奪取。二連敗からの逆転であったが、今年はどうか。現在の藤井氏にとって最大の難関は同じ愛知県出身の豊島氏である)。
 囲碁は本日からの本因坊戦第四局で、井山九段が勝利して防衛を決める可能性は七〇%ぐらいであろうか。芝野九段も十段を村川氏から奪取して三冠となったが、現在の井山氏からの勝利は難しそう(実際は芝野九段の逆転勝利であった)。全盛期の井山氏(現在も近い状態か)に挑戦手合い七連敗と跳ね返された一力八段が碁聖戦の挑戦者決定戦で張氏に勝利した。昨年度は決定戦で一力氏に勝利した波根九段が許碁聖からタイトルを奪取している。波根氏は最近でこそ井山氏に負け越しているが、若手のトップ棋士の壁となってきた。これまで五度の挑戦(棋聖1、天元2、王座2)を井山氏に跳ね返されてきた一力氏が初の七大タイトル(将棋も近年、叡王戦が加わるまでは七大タイトルだった)を獲得する可能性は六〇%ぐらいか。自らが記者となった仙台の河北新報(父が社長)も碁聖戦を掲載しており、自戦解説となるのだろうか。なお、全棋士参加の棋戦では竜星戦で3度、NHK坏で1度優勝している。
 一力氏は今年度の七大タイトルでは棋聖戦と天元戦で挑戦の可能性がある。棋聖戦は前年度は挑戦者決定戦で敗れた。今年は始まったばかりでSリーグで一勝〇敗であるが、挑戦者の最有力候補である。2017年度は井山氏に挑戦するも敗れ、2018年度はSリーグまさかの二勝三敗でAリーグへ陥落し、2019年度はAリーグ一位で、トーナメントでSリーグ2位の高尾九段に勝利するも、1位河野九段に惜敗したが、すぐにSリーグ復帰を決めた。芝野氏は2018年にBリーグ(一組と二組の2つ)1位でAリーグに昇級したが、2019年は5位でギリギリ陥落し、2020年はBリーグ一組で三勝一敗である。Bリーグで1位となれば挑戦者決定トーナメントに進めるので、Bリーグ二組の一位に勝利し、Aリーグ1位、Sリーグ2位、Sリーグ1位を連破すれば棋聖挑戦の可能性はある。三冠であり且つ、最難関の井山氏がいないことを勘案すると、現時点での挑戦の可能性は三〇%ぐらいか。一力氏が50%強で、その他の棋士が20%弱であろうか。
 スーパーラグビーはコロナ対応が的確だったニュージーランドで試合が六月一三日から再開された。無観客ではなく、一四日のブルーズのホームオークランド(NZ最大の都市)での試合は満員であった。第三週まで終了しているが、コロナ再感染の情報は伝わっていない。中断前の成績はリセットし、再開後の成績で順位を決める。七月三日からはオーストラリアでも試合が再開されるが、観客の有無についての情報は未確認である。南アフリカなどその他の地域での試合再開日程については不明である。日本のサンウルブズはオーストラリアカンファレンスに属しているが、入国しても二週間の隔離が求められ、試合のコンディションが作れないとの判断から、今年度の試合は断念し、解散となった。

2020年6月29日 (月)

隠岐守藤原惟頼の謎

 隠岐守惟頼は知行国主松殿基房知行国の国守としたが、治承三年一一月に解官されたリスト(『玉葉』、『山槐記除目部類』による)中には含まれていない。安元二年正月三〇日の隠岐守補任なので、治承四年正月には一期四年の任期が終了するが、どうであろうか。平氏のクーデターの直前の一〇月二五日に中納言に補任された基房の子師家が拝賀した際の前駈メンバー中で、受領に見任しているのは壱岐守盛業、上野介頼高、隠岐守惟頼、対馬守親光である。壱岐守盛業は補任時期は不明だが、治承四年一月二八日の除目で源俊光に交替している(ただし俊光は補任直後の二月二〇日に辞任)。治承元年九月補任の上野介頼高は日野兼光が知行国主で、任期途中であったため解官されていない。治承三年正月補任の対馬守日野親光は資憲の子であるが、これも解官されていない。四人がいずれも摂関家と関係の深い人物であったことは共通している。
 松殿師家の中納言補任は平清盛が支援してきた近衛基通を超えたもので、クーデターの一つの原因とされるものであるが、惟頼の場合は、任期満了が迫っていたためか、あるいは文治二年三月一六日に九条兼実の子良通の前駈にみえるように、松殿家だけでなく九条家との関係も深かったため、解官の対象から外されたのだろうか。ただし、治承四年正月二八日の除目にも隠岐守はみえない(『玉葉』、『山槐記除目部類』)。『玉葉』には重任を含めて受領の除目が掲載されているが、そこにも見えない。
 以上のように、佐渡守藤原重頼と藤原惟頼、隠岐守藤原惟頼は松殿基房と関係の深い人物が国守に起用されたが、基房の知行国ではないとすべきであろうか。一一月に解官されたが、そのリストから漏れていたというのが一番分かりやすいが、謎である。

2020年6月28日 (日)

藤原俊忠の子達3

 俊忠の娘豪子は德大寺公能の妻となり、その子と系図で明記されている子が七名いる(豪子以外の妻の名前は不明)。その中の最年長が後白河天皇の中宮となった忻子(一一三四年生)で、最晩年の子公衡(同母弟)との間に二四才の差がある。持明院通重の妻となった娘は嫡子能保を久安三年(一一四七)に生んでいることからすると、忻子の姉であろう。また能保の妹が公能子公衡の妻となっており、能保の同母妹で、その母は忠子であろう。
 俊忠の長子であろう忠成は父の死亡時には三三才になっていたが、久安三年に民部大輔に補任されたのが極官で、保元三年(一一五七)に五八才で死亡した。德大寺公能(一一一五年生)の妾となったのは嫡子光能の姉で、以仁王(一一五一年生)の妾と持明院基宗(一一五五年生)の室となった女性は妹で、忠成晩年の子であろう。光能は父忠成の死亡時に二三才で叙爵していたが、従五位上に叙された(院未給)のは一八年後の長寛二年(一一六四)一一月で、父忠成は七年前に死亡していた。その名から姉の嫁ぎ先德大寺家の庇護下もあったと思われるが、叙位の一月前には公能の嫡子実定が権大納言に昇進していた。翌永万元年に待賢門院女房関屋(その娘は崇德院の最側近日野資憲)の弟である藤原懐遠から譲られて下野守に補任され、二年後の永万二年正月の後白河院政所下文の署判者としてみえる。次いで仁安二年(一一六七)正月には正五位下に叙せられ右少将を兼ね、一二月には従四位下に叙せられるとともに、叔父俊成の子光季(定家)を国守として紀伊国知行国主となった。翌三年三月には公能の娘で後白河天皇に入内した忻子(中宮から姝子内親王の二条天皇の中宮に立后されたことで皇后となる)の皇后宮亮に補任された。
 定家は父俊成が四九才時の子で、五才で叙爵し、六才で紀伊守に補任されたが、その当初の名光季は三〇才年上の従兄弟光能にちなむものであった。承安二年(一一七二)六月には光能の子弘家が紀伊守に補任されているが、光季の動向は、安元元年(一一七五)一二月に父俊成が右京大夫を辞して侍従に申任するまで不明である。この時点では「定家」とみえる(『玉葉』)。とはいえ、従五位上に叙されたのは治承四年(一一八〇)正月で、叙爵の一三年後であった。寿永二年一二月に正五位下に叙せられているが、八条院の御給であった。定家の母は八条院の母美福門院女房加賀であった。翌三年には藤原季能の娘との間に長男光家が生まれているが、季能の父俊盛は美福門院・八条院母子に仕えていた。定家の昇進が起動に乗るのは、文治二年三月に前年一一月末の除籍処分が解除されてからである。三月一二日の勧学院衆参賀に対する饗で、二献を務めた権中納言定能(藤原季行と中御門宗能の娘の子)の瓶子を侍従定家が務めている。それに先立つ正月一三日の興福寺と法成寺の僧徒による参賀でも役割を務め、三月一六日に九条兼実が行った摂政補任の拝賀でも前駈殿上人としてみえており、兼実との関係を強めていた。以上、光能とその甥定家の状況をみた。光能は後白河院の寵臣とされるが、本来は待賢門院関係者として德大寺家との関係が中心であった。
 俊忠の子に関連して俊成の子に、八条院、高松院、上西門院、建春門院の女房となった多数の娘がいることも重要であるが、それについては別の機会に検討したい。

藤原俊忠の子達2

 顕頼の娘が異母弟(叔父)顕長の妻となっているがその子については不明である。俊忠の娘(忠子の妹)俊子もまた顕長の妻となっている。顕長は天治二年(一一二五)正月に八才で紀伊守に補任されており、父顕隆が知行国主であった。顕隆は大治四年正月に死亡したが、越中国に遷任したのは一二月二九日であった。この時点でも顕長は一二才であり、兄顕頼が知行国主であったと思われるが、五味氏のリストから漏れている。父は死亡したが兄が国主を継承し、その後遷任したのである。そうした中で、顕頼の娘を妻とし、その養子となったのではないか。顕長の嫡子長方は保延五年(一一三九)の生まれで、母は俊忠の娘である。顕長は越中守を二期八年務めた後に二〇才で三河守に遷任しているが、久安元年末に遠江守顕広(養父顕頼が国主)と相博した。久安四年正月に顕頼が死亡したが、顕長、顕広ともにその影響を受けていない。顕広も養父顕頼の死亡時点では三五才であり、これ以降は独立した国守となっていく。久安五年四月には丹後守に遷任し(その跡に顕長が遷任)、仁平二年一二月松には左京権大夫に補任され、受領を卒業している。
 顕広は顕頼の嫡子光頼より一〇才年長であるが、その昇進は遅かった。その背景には顕広が崇德院流に属していたためであろう。久安元年に皇后宮(得子)給で従五位上に叙せられたが、これは父俊忠死亡後四年目で一〇才となった大治二年正月に待賢門院第一皇女禧子内親王給で叙爵して以来であった。久安六年に崇德院の歌壇のメンバーによる『久安百首』がまとめられているが、顕広もその一員であった。その頃までは鳥羽院、美福門院、近衛天皇と崇德院との関係も良好であった。崇德の子重仁は美福門院の養子に入っており、久安六年一二月には一一才で元服している。一才年上の近衛天皇も同年正月に元服したばかりで後継者はいなかった。その乳母宗子と夫平忠盛も健在であった。
 そうした状況下で、摂関家の相続争いにからんで、同年三月には内覧頼長の養女多子(公能娘)が入内・立后(皇后)されたのに対抗する形で、摂政忠通も養女呈子(藤原伊通娘で、美福門院の養女となり、次いで忠通の養女となる)を入内させ、六月には中宮とした。多子より九才年長で二〇才である呈子に皇子誕生が期待され、仁安二年一〇月には懐妊に伴う儀式が行われたが皇子は誕生せず、翌年半ば過ぎには想像妊娠であったとして祈祷は停止された。これにより、頼長と忠通の間の溝が深まるとともに、近衛天皇の後継者誕生も望み薄だとして、鳥羽院政の後継者は崇德院であるとの観測が強まった。これに対して、鳥羽院と美福門院は鳥羽院没後の女院所生の三人娘の将来に関して不安を感じるようになった。これにつけこんだのが信西入道と頼長追い落としを画策した忠通で、保元の乱へつながる動きが出てくる。
 話を戻すと、顕広の昇進のスピードが早まるのは久安六年正月に正五位下、翌七年正月に従四位下と続けて叙されて以降であった。美福門女房加賀を妻としたことも大きいとされるが、長子であろう八条院三条が生まれたのは久安四年(一一四八)であった。後白河が即位した久寿二年一〇月にも美福門院御給で従四位上に叙せられている。女院の死亡により一時的に昇進が停滞したが、永万元年七月に二条院が死亡し、次いで翌年七月に摂政基実が死亡し、後白河院が主導権を回復した直後の八月に従三位、翌仁安二年正月に正三位に叙せられた。以上が崇德院派であった顕広が非崇德院派に転じた経過であるが、仁安二年末に養父顕頼にちなむ顕広から実父俊忠にちなむ俊成に名前を変更している。

藤原俊忠の子達1

 待賢門院・崇德院流の最大のキーマンは白河院であるが、公家としては、前述の勧修寺流顕隆とともに、道長の曾孫俊忠がいる。その子で最も有名なのは歌人としても知られる俊成であろうが、その同母兄弟・姉妹も多い。俊忠女子の場合、ほとんどが母親は不明であるが、俊忠の妻としては藤原敦家の娘以外の情報はない。敦家とその妻兼子(藤原顕綱娘)との間に生まれたのが俊忠の妻と白河院近臣敦兼である。俊忠の長子と思われる忠成は早くから頼朝と連絡を取っていた光能の父であるが、同母弟俊成との間に二三才差があり、系図で知ることができる六人の男子以外に娘がいた可能性は大きい。
 俊忠の娘忠子は顕隆の嫡子顕頼の妻となり、祐子(一一四二年に滋子を生んでおり、光頼の姉であろう)、嫡子光頼(一一二四年生)、惟方(一一二五年生)、成頼(一一三六年生)、頼子(一一三八年生の藤原頼長の長子師長の妻であり、成頼の妹であろう)を生んでいる。顕頼の娘公子は藤原忠隆の子信頼(一一三三年生)の母であり異母姉であろう。顕頼にはこの外孫信頼の妻となった娘もおり、この女性は忠子の娘が母であった可能性があるが詳細は不明である。また藤原家成の子家明(一一二八年生)の妻となった娘がいるが、承安二年(一一七二)一二月に四六才で死亡した家明の子として唯一系図に記載がある家光は承安二年二月に清盛の娘徳子が高倉天皇の中宮に立后された儀式で、中宮大進基親(親範子、一一五一年生)、同権大進藤原光憲、同権大進宗頼(光頼子、一一五四年生)、兵衛佐平経正、右兵衛佐藤原実教(家成子、一一五〇年生)らとともに、「兵衛佐家光」が御物搬入や宴座の運営にあたっている。
 生年不明の光憲は系図では信西の子とするものと、孫=貞憲(一一二三年生)の子とするものがあるが、「醍醐寺無量寿院院務法流相承」(三宝院文書)では中納言僧都全賢について、「備中守光兼(憲)息、貞憲孫」としており後者が正しい。「興福寺奏状」の起草者として知られる貞慶(一一五五年生)も貞憲の子であるが、平治の乱で父貞憲が祖父信西とともに失脚したことで仏門に入ったという。
 同じく生年不明の平経正は清盛の異母弟経盛(一一二四年生)の子で、文化人としても知られていたが、一ノ谷合戦(一一八四)で戦死している。末弟敦盛(一一六九年生)も同合戦で熊谷直実に討たれ、後世にはその場面が能や幸若舞の題材として流布した。清盛の異母弟教盛(一一二八年生)の子通盛(一一五三年生)は仁安元年(一一六六)一〇月に一四才で左兵衛佐となり、翌仁安二年閏七月一〇日には左馬権頭平経正、左馬頭平重衡(一一五七年生)、散位藤原実教、越後守平時実(時忠子、一一五一年生)等とともに昇殿を許されている。父経盛の昇進が異母弟教盛より遅いことを勘案すると経正の生年は一一五〇年前後ではないか。
 ということで信西の孫光憲もまた一一五〇年前後の生まれであり、兄弟などの情報を欠く家光もまた同世代であり、家光を生んだ顕頼の娘は惟方と成頼の間に生まれた同母姉妹である可能性が高い。その名に「光」が付いているのも光頼(一一七三年死亡)との関係であろう。

 

2020年6月26日 (金)

石見守藤原邦輔の補足

 佐々木紀一氏「以仁王近臣三題」(『米沢国語国文』三二、二〇〇三年)に記された情報を加味して述べる。
 承元三年(一二〇九)七月と八月に石見守見任が確認できる「邦輔」が成方の子で、九条家家司であることは前述の通りであるが、それ以前に、以仁王の最期を目撃した宗信と同一人物だという。宗信は王の乳母子であり、『延慶本平家物語』には正治元年に改名して伊賀守になると共に「郡〔邦〕輔」名乗ったとする。さらに建仁四年に以仁王の遺児である城興寺宮真性が拝堂登山をした際の房官としてみえる宰相上座最成には「伊賀前司邦輔子」との注記がある(『門葉記』一七六)。石見守に補任されたのは元久二年四月補任の源頼兼の後なので、建仁四年時点では「伊賀前司」で問題ない。佐々木氏は『延慶本」でも伊賀守にのみ言及しているので、『平家物語』の成立時期に関わる可能性があるとしている。
 文治二年三月には、頼朝との関係を背景に摂政となった九条兼実が拝賀のため各所を廻った際に、兼実の嫡子右大将良通の前駈をとつとめた四人の中の一人として「邦輔」がみえるので、宗信が邦輔と改名したのは以仁王の没後間もない時期のことであろう。以仁王近臣であった少納言藤原宗綱の場合は、乱への関与により左衛門尉定頼のもとに預けられた後に備中国に流罪となり、養和元年一〇月八日以前に許されて帰京していた(『玉葉』)。承元四年九月一日には九条兼実の孫道家のもとを訪れ、一二月に大慶の事があるとして、寿命は四〇余才であるが、神社に祈念すれば八八才まで生きることも可能だと述べ、それを当時一八才であった権大納言道家(前年三月に同母姉立子が皇太弟守成=順徳の妃となる)が日記『玉蘂』に記している。寿命と言えば信長の舞った幸若舞敦盛の中の「人間五十年」が有名だが、鎌倉初期の寿命に関する情報である。
 「隠岐守藤原惟頼再論」では、文治二年四月二八日に松殿基房の子家房の拝賀に惟頼がみえ、一〇月七日には摂政九条兼実の着陣に扈従した嫡子右大将良通の前駈としてもみえたことを紹介したが、それに先立ち、上で述べた三月一六日に良通の前駈四人の中に邦輔とともに惟頼もみえていた。

2020年6月24日 (水)

藤原顕隆とその子達

 白河院政後半の近臣、勧修寺流為房の子顕隆については「夜の関白」と呼ばれたことが有名であるが、その後の歴史にも大きく影響を与えており、今回はその子を通して確認する。
 前にも述べたように、その個人的資質以上に物をいったのは父為房の妹光子である。一一才年下の光子は正三位為房に対して従二位に叙されている。光子が藤原公実との間に産んだ璋子が白河院の養女となり、院の孫鳥羽院の中宮になった。その背景には公実の同母妹苡子が堀河天皇の女御となり、その子宗仁(鳥羽)が堀河の後継者として即位したことがあった。公実と苡子との間には二三才の差があったが、母はともに藤原経平の娘睦子であった。歴史の人物をみていく上で同母の兄弟、姉妹であることが大変大きな意味を持つ。為房の母は平行親の娘であるのに対して光子の母は不明だが、両者の関係からすると同母であった可能性が高い。
 顕隆が同母(源頼国の娘、二才年上)兄為隆に先んじて昇進した一つの要因はその能力にあったであろうが、それとともに、皇太弟実仁の死を契機に、子堀河に天皇を譲った白河院の蔵人になったこともあろう。兄為隆が堀河天皇の蔵人となった翌年(応徳四)のことであった。為隆が叙爵した同じ年に顕隆は天皇の蔵人となるのと同時に叙爵している。為隆が叙爵の五年後に従五位上となったのに対して顕隆は二年後であり、同年には勘解由次官に補任されている。顕隆が二七才で弁官(右少弁)となったのに対して為隆が同じポストに就いたのは三六才の時であった。顕隆は三〇才で宗仁の春宮大進となり、妻悦子(藤原季綱娘)がその乳母となった。宗仁が父堀河の死で天皇に即位した翌年(天仁元年)には、嫡子顕頼を出雲守として知行国主の地位を得ている。
 永久五年(一一一七)一一月二六日に璋子が鳥羽天皇に入内して女御となるとその政所別当となり、翌元永元年正月に璋子が中宮となると、中宮亮となった。そのもとで実務の中心となったのは二人の権大進、藤原清隆と顕隆の嫡子顕頼であった。そして元永二年に顕仁が誕生すると、顕隆は嫡子顕頼とともに親王家の別当となり、顕頼の同母妹である栄子が顕仁の乳母となっている。顕隆は白河院が死亡する半年前の大治四年正月に五八才で死亡している。
 顕隆の子達の母親として知られているのは藤原悦子と、村上源氏源顕房の娘であるが、後者の子としては藤原顕長のみ知られている。嫡子顕頼と同母弟顕能の年齢差は一三、異母弟顕長との差は二四才で、顕長は顕隆晩年の子である。ここからすると、顕頼と顕能と年齢の近い娘は同母姉妹である可能性が高い。具体的には藤原家政、德大寺実能、藤原清隆、藤原憲方の室となった女性である。家政の嫡子雅教は顕能の娘を妻としている。雅教の同母姉が清隆との間に嫡子光隆を生んでいる。実能の長女幸子(藤原頼長室)と嫡子公能の母はともに顕隆の娘である。憲方は顕隆の甥で、嫡子頼憲と後に平通盛の妻となった上西門院女房小宰相の母は顕隆の娘である。また、頼憲は顕頼の子(従兄弟)である惟方の養子となった。惟方が平治の乱の直後に失脚したことと、仁安三年二月一九日の時点ですでに故人となっていたこともあり、頼憲の従兄弟吉田経房が為隆流の嫡流となっていくが、能吏として知られる経房は頼憲が作成した蓮華王院法蔵の文書目録を高く評価している。清隆の室となった娘は後に顕隆の二七才年下の異母弟朝隆の嫡子朝方(1135年生)の母である。この記事の意図は待賢門院・崇德院流の人々の背景を明らかにすることにある。

2020年6月22日 (月)

能登守持明院基家をめぐって2

 藤原基家は、滋子が憲仁を生んだ直後の応保元年九月二八日に能登守を解官された。平時忠と平教盛が九月一五日に解官されたのに続く措置であった。一般的には後白河院派であったためだとされるが、もう少し細部を確認したい。
 基家の母は待賢門院女房で統子内親王の乳母を務めていた。嫡子基宗(1155年生)は上西門院因幡を母とし、その嫡子家行は上西門院帥局との間にうまれている。その後、基家は平頼盛の娘との間に保家が仁安二年(1167)に生まれているが、その同母姉が承安元年(1171)に西園寺実宗との間に嫡子公経を生んでいることを勘案すると、基家と頼盛娘の関係は基宗誕生の前後に遡る(保元の乱の前ではないか)可能性が大きい。基家が疑われた背後には頼盛との関係があったことになる。前述のように頼盛と八条院女房(法勝寺上座寛雅の娘、俊寛の姉妹)との間に光盛が生まれたのは承安二年(1172)の事で、頼盛と八条院の関係はこの時点では強くはなかった。
 それでは時忠とともに解官された平教盛はどうであろうか。単純に清盛の異母弟だからですますわけにはいかない。教盛は待賢門院女房を母としたこともあり、崇德院の最側近日野資憲の娘を妻とし、嫡子通盛が仁平三年(1153)に誕生している。その娘が異母兄清盛の嫡子宗盛の室となり、嫡子通盛は宗盛の娘を妻としているが、通盛の当初の妻は上西門院女房小宰相であった。小宰相は待賢門院御願寺法金剛院の造営にあたった藤原憲方と藤原顕隆の娘の間に生まれている。そのため前斎院統子内親王(その後、立后、院号宣下)の女房となったが、母の兄弟顕頼の娘(従姉妹)の子滋子もまた上西門院女房となった。
 本ブログでは、持明院基家、平教盛、平頼盛はいずれも待賢門院・崇德院流に属する人物であることを述べて来た。憲仁の母滋子(母は藤原顕頼の娘祐子)も同様で、それ故に上西門院女房となった。時忠、教盛に対して清盛はこの時点では憲仁を子の無い二条天皇の皇太子とする動きに与していなかったとされる。以上、能登守持明院基家をめぐる問題について確認した。
 保元年間に能登国櫛代庄が伊勢神宮に寄進・立券されたことを可能とした背景には、保延六年(一一四〇)から基家が解官された応保元年(一一六一)九月まで、保元の乱の前後の一時期を除き、持明院通重と同母弟基家が能登守で、その上に分国主として統子内親王がいたことがある。保元三年二月に統子は同母弟後白河天皇の准母として立后(皇后)された。その際に皇后宮権大進に吉田経房、権少進に源頼朝がいたことは有名だが。経房の伯父憲方が皇后宮亮、皇后宮大進は平親範であった。櫛代庄は上西門院立后時に寄進された可能性が高い。櫛代庄も親範からその姉妹の子である範能=大弐三位に継承されたものであろう。

能登守持明院基家をめぐって1

 伯耆国三野久永御厨の給主大弐三位藤原範能は能登国櫛代(くしろ)御厨の給主でもあった。三野久永御厨は長寛年中(一一六三~六五)の立券である。当時の伯耆国守は平基親で、その父親範が知行国主と考えられる。基親は保元三年(一一五八)に出雲守に補任されたが、翌年に隣国伯耆守源光宗が知行国主である父光保とともに一年で交替すると、その跡に遷任した。伯耆国は久安四年(一一四八)から二期八年親範が国守であった。それにゆえに、基親が国守となるとすぐに伊勢神宮領である御厨の立券が可能であった。給主範能は信西入道の子脩範と親範の姉妹との間に生まれている。
 これに対して能登国櫛代御厨は、保元年間(一一五六~五九)の立券であるが、承久三年(一二二一)九月六日能登国大田文には鳳至郡櫛比庄とみえている。九〇町九反の大規模庄園であるが、大田文には立券時期の欄は空白となっている。能登国では鳥羽院政期、それも持明院通重が国守であった時期(久安元年と二年)に五〇〇町の若山庄等大規模庄園の立券が集中しているが、「久安年中八幡宮券状」とある鹿島郡飯川保から「寿永三年(一一八四)券免」と記されている同郡高田保まで、三〇年間以上庄園の立券がみられない。ただし、大田文では元暦二年(一一八五)立券とある菅原庄は、持明院通重の祖父基頼が元永元年(一一一八)に菅原保を北野天満宮に寄進しており、元暦二年に再寄進・再立券され、菅原庄が最終的に確定した時期であろう。それは他の庄園にも該当し、大田文の立券時期を相対化する必要がある。
 保元年間の能登守は通重の弟基家である。一般的には最初の上西門院分国は仁安元年(一一六六)八月に持明院基宗(基家嫡子)が国守に補任された加賀国で、能登国については寿永二年一二月に基宗の子基能(母は上西門院帥局)が国守に補任されたことで女院分国となったとされるが、本ブログでは、通重が国守の時期の能登は待賢門院の娘で前斎院と呼ばれた統子内親王の分国であると理解している。能登守は通重が早世したため同母弟基家が継承した。保元元年(一一五六)正月に能登守は藤原家成の異母兄家長に交替したが、保元の乱後の九月には基家が能登守に再任されている。櫛代御厨の立券はこの基家の国守在任中(当ブロクではこの時期も前斎院分国)であった。範能の祖父信西入道は待賢門院判官代から鳥羽院近臣に転じ、保元の乱で崇德院を排除した張本人であるが、庄園の立券にあたったと思われる平親範は、祖父平実親以来待賢門院との関係が深かった。これも通説では女院との関係の深かった藤原家成、藤原顕頼、藤原清隆(親範の外祖父)は近衛天皇の即位の前後から美福門院派へ転じたとされるが、そうではなく、複数の有力者との間に関係を結び、これを維持していた。近衛天皇が死亡する直前までは鳥羽院後の治天の君は崇德院が最有力であった。

後白河院の分国4

 六条幼帝の摂政基実が死亡した翌月の仁安元年八月には時忠の長子時実が一六才で越後守に補任されている。知行国主は同日付で従四位下に叙せられた時忠であろうが、さらにはその上に分国主として守仁親王の母滋子がいたと思われる。鳥羽院の寵姫得子の場合も女御となる以前から分国(知行国)が認められていた。仁安二年一月には滋子が女御とされ、その家司として父時忠とともに越後守時実がみえている。同年一月には隠岐守に見任している中原宗家も女御滋子の役人としてみえ、仁安三年三月に滋子が女御から皇太后となった際には、時実の同母弟時家が皇太后宮少進、宗家が宮大属に補任されている。この時期の隠岐国も滋子の分国であったと思われる。宗家は仁安二年一二月末に伊豆守に遷任しているが、分国も隠岐国から移動している。
 越後国は嘉応元年一二月末には平信業が国守となり、藤原成親の知行国となった。滋子の分国は伊賀に遷り、皇太后宮権大進(→建春門院庁判官代)平親宗の子でわずか六才の親国が国守に補任された。親国は嘉応三年正月には阿波守に遷任している。安元二年(一一七六)七月に建春門院が没すると、女院庁別当以下の役人の多くは後白河院庁の役人に戻っている。後白河院分国は公卿補任で知られるよりもはるかに多数存在したと思われるが、ここではその初期の院分国と滋子(建春門院)分国について確認した。すでにみたように、後白河院は八条院の近臣藤原俊盛の嫡子宗能を自らの分国とした周防の国守にした例もあった。父鳥羽院や兄崇德院、さらには美福門院の庄園を継承できなかった後白河としては、父鳥羽院政期で廃止された一院分国を復活することで、近臣の組織化を行いつつ、次いで新たな庄園の集積を行っていった。

後白河院の分国3

 明証のある最初の後白河院分国は、応保元年(一一六一)一〇月二九日に藤原脩範が国守に補任された美濃国である。脩範は藤原信西の子で、この時一九才であるが、この四年前に一五才で美濃守に補任されている。父信西が知行国主であったと思われる。ところが信西を排除するクーデター=平治の乱が起こされ、父は死亡し、脩範も国守を解官され、配流された。後任となったのは、待賢門院侍として石見守に補任された卜部兼仲の弟基仲であったが、後述のように応保元年九月末に解官され、その後任に、流罪から還任していた脩範が二度目の美濃守補任となったが、前回とは異なり、後白河院の分国であった。
 永暦元年(一一六〇)一二月に二条天皇の養母美福門院が死亡し、翌応保元年九月三日に後白河院と滋子との間に憲仁(高倉)が誕生した。その直後の九月一五日に滋子の異母兄右少弁時忠と清盛の異母弟常陸介教盛が解官された。次いで二八日には右馬頭藤原信隆と右中将藤原成親、能登守藤原基家、美濃守卜部基仲、飛騨守藤原為行、内匠頭藤原範忠が解任された。その理由は明確ではないが、時忠と教盛は憲仁を後継者のいない二条天皇の皇太子としようとして天皇により解官されたとされる。二八日に解官された人物については日記や公卿補任での解任時期の情報が錯綜しているが、上記の通りであった。
 時忠は甥の立太子を望み、教盛はそれが平氏一族に好都合と考えたのだろうが、第二弾の解官メンバーは後白河院の近臣である。にもかかわらず、美濃国は後白河院分とした上で、院の乳母の子脩範が国守に補任された。脩範は嘉応元年(一一六九)一二月には美濃守を辞任し、後任には院近臣信隆の同母弟信行が補任されたが、その一方で、その一年以上前の仁安三(一一六八)年八月には伊予国も院分とされ、前任の信隆に替わって同母弟で三二才の親信が国守に補任されている。親信は二年前の仁安元年六月に受領(備中守)から中央の官職である右馬頭に遷任していた。それを再度受領に戻すとともに伊予を院分国としている。この間、永万元年(一一六五)七月には二条天皇が死亡し、仁安三年二月には二条の子六条天皇が退位し、滋子の子憲仁が高倉天皇として即位している。

 

2020年6月20日 (土)

末法な日本

 教員になりたての頃、高校の社会科準備室で三人の同僚と同室となった。一人は三年先輩のA氏で、残る二人は五〇過ぎの大先輩B氏とC氏であった。ある時、A氏から大先輩二人の話を聞いていると未来ではなく末法を感じるとのコメントを聞いたことを思い出す。現在の日本も「世も末」という以外のコメントしか浮かばない。
 一二世紀の政治史は鳥羽院の後継となる可能性が大きかった崇德院が排除されて没落し(信西入道なかりせば、このような事態にはならなかった。学問的素養が評価されるが、恐ろしいほど子沢山で政治的人物であった)、次いで政治の中心となるはずの二条院が早世したことで後白河というノーマークの人物が政治を主導する結果となり、関係者は右往左往する結果となった。そうした中でこそ平氏政権が誕生したが、崇德院より一才年上の清盛は八才年下の後白河院より先に死亡してしまった。これに対して源頼朝は後白河より二〇才年下であったが、後白河没後七年で早くも死亡しており、これがさらなる時代の混迷を招いた。諸悪の根源は能力を欠く政治家後白河が生きのびたことにある。
 現在の後白河に相当するのが在任が長い以外に取り柄のない二人の総理大臣であろう。唯一のノーベル賞(ただし受賞にみあう中味なし)受賞者である某首相(敗戦時鉄道省内で大阪へ左遷されていたがため、公職追放を免れる。造船疑惑時の犬養法相の指揮権発動は有名。さらには前首相が病死したことで、総裁選で大敗していたにもかかわらず、後継総裁となった)は、日韓基本条約、非核三原則、沖縄返還がその業績とされるが、それぞれに現在の日韓関係、日本の非核政策、沖縄問題に大きな影を落としている。その処理には首相の政治的手腕の無さが影響している。後継者に指名した人物が、今太閤と呼ばれた人物との争いに敗れたこともこの人物の見識のなさを示している。そして日米関係では、ニクソン大統領の中国電撃訪問を知らされていなかったという失態を演じてしまった。その「豪腕」ぶりを述べた評伝があるようだが、その時点の力関係にもよる。同様に、後白河も現首相も「豪腕?」を振るったといえなくもない。その息子が後援会を継承し、国会議員、大臣となったが、個人的魅力のなさから選挙では弱かった。
 現職首相(祖父は元首相で某首相の兄。A級戦犯容疑者であったが、判決が出されたのは第一次分のみで、その後は米の都合で裁判そのものがなくなったため、祖父は出所後政界に復帰。これがなければ弟と孫が首相になることはなかった)も日米関係を強調するが、前大統領オバマからはその偏狭的歴史観ゆえに歴史修正主義者との烙印を押され、現在のトランプからはぼったくりを受けて日本国民の将来を奪い続けている。イージスアショアもそうだが、その欠陥から米空軍が採用を行っていないF35の大量購入もある。二度目の首相となったが、それは当時の自民党老害政治家たちが、自分たちの出番を無くしてしまう候補(当方はこのもう一人の世襲政治家の評価も低いのであしからず。大昔に市ヶ谷の日本棋院を岸本左一郎関係資料の調査に訪れた際に、近くにある防衛庁職員関係の宿泊施設を利用し、施設内ですれ違ったことがある。すれ違ったといえば、大学へ行く途中の本郷三丁目の横断歩道で、元ずーとるびのメンバーで後に俳優として活躍した人物とすれ違ったことを思い出す。このすれ違った二人と当方は同学年である)の当選を防ぐためであった。排除するため、とりあえず現首相を総裁にしておいて、まずければいつでもクビにするつもりであった。それが全てである。
 福島原発の事故を契機に現与党は歴史的解党を行い、ゼロから再出発すべきであった。それをしなかったのが現在の惨状(政治家の質的低下=劣化は目を覆うばかりである)を招いている。現首相がまずくなると国会から逃亡するのは誰も自分のクビに鈴をつけようとしないからである。現与党がまともなら、とっくに総裁を交替させていたはずである。同様に、現首相以外の人物なら、現在の日本の原発をめぐるお粗末な現状は避けられたであろう。これが経済界の質の低下にもつながっている。以前につけた現首相のニックネーム「レッカーシャ」の由来である。
 後白河さんからのコメント「私には今様『梁塵秘抄』の編者という大業績がある。文化的に無教養な二人と同じあなの狢にしてほしくない」。

2020年6月19日 (金)

藤原重頼と基房知行国3

 承安二年二月には平清盛の娘で女御であった徳子が中宮に立后されたが、権大夫平時忠、権大進宗頼(顕頼嫡子光頼の子)とならんで少進佐渡守藤原重頼がみえる。翌三年四月に高倉天皇の賀茂行幸の勧賞として、重頼が正五位下に叙されたのは父重方の譲りを受けたものであった。次いで六月一二日には清盛の妻で徳子の母である時子が八条持仏堂の供養を行った際に、二〇余の関係者が集まったが、その中に右中弁重方とその子重頼もいた。権右中弁吉田経房は両者と時子の関係を知らず、或人に尋ねたが、由緒が不明だとの答えだったと記している(『吉記』)。
 時子は平時信の娘であるが、異母妹に高倉天皇の母滋子がいた。滋子の母は藤原顕頼の娘祐子で、光頼・惟方・成頼の同母(藤原俊忠の娘)姉であった。重方・重頼は時信の正室祐子との関係で供養に参加していたのである。以上により、藤原重頼が国守であった時期の佐渡国が松殿基房の知行国であった可能性は高くなったと言えよう。基房知行国の連続状況は、永万元年から承安四年(一一七四)正月までが佐渡守重頼、その跡を継承したのが惟頼で、安元二年(一一七六)正月に隠岐守に遷任し、佐渡守には中原宗家の子尚家(親子関係は五味氏による)が補任された。隠岐守惟頼は治承三年(一一七九)一〇月見任が確認できるが、直後の一一月の平家のクーデターにより知行国主が基房から平家関係者に交替したと考えられる。その後、基房自身は配流処分が解かれて翌治承四年一二月には都への帰還を許され、過去に基房知行国播磨の国守であった藤原隆親(播磨国の後の遷任は史料を欠き不明)が治承四年一二月に河内守に補任されており、惟頼が隠岐守に復活した可能性もああるが、詳細は不明である。前回確認した永万二年(一一六六)七月補任の丹波守惟頼からスタートした基房知行国は翌年、相模国に遷り(藤原有隆、源通定、有隆)、次いで承安元年(一一七一)一二月に大宰府(大弐藤原重家)に遷り、さらには安元二年(一一七六)補任の三河国(重家の子顯家)が平家のクーデターまで続く。
 重頼と高倉院皇女で斎院となった範子内親王との関係の背景として中村氏が二条院関係者が徳子所生ではない皇女の周辺に集まるとの観点を示されているが(徳子と範子の関係は良好である点は源有房の記事で述べた)、それとともに重頼の祖父顕能以来のつながり(当ブログでは待賢門院・崇德院流と呼ぶ)がある。重頼と高倉院の母滋子との関係である。治承三年一一月三日に藤原朝方は権中納言補任の拝賀のため、各所を訪れているが、そこに重頼が扈従したことも同様である。朝方の母は顕隆の娘であり、朝方の妻の外祖父は藤原俊忠であった。俊忠の娘に德大寺公能室豪子や顕頼室忠子がいたのは前述のとおりである。

藤原重頼と基房知行国2

 この時点では六条天皇の摂政基実が健在であったが、翌二年七月に死亡している。基実の弟基房は永万元年の時点で二二才で左大臣であったが、翌二年に摂関家氏長者となり、六条天皇の摂政となった。何が言いたいかというと、重頼の佐渡守の後任となった惟頼(重方の兄頼佐の子)の時点で佐渡は基房の知行国だとしたが、それは重頼が永万元年に補任された時点に遡るのではないかということである。
 惟頼の父頼佐は弟重方が蔵人に補任された翌年=康治二年(一一四三)一月に阿波守に補任されている。その時点では従五位下崇德院判官代であったが、散位であった。同年一二月八日には頼長が庶長子(後の師長。兼長より三ヶ月早く生まれたが、母の関係で兼長が嫡子とされた)の着袴を行い、家司を定めているが、その中に頼佐がみえる。久寿二年一〇月に女御となった忻子の家司が定められたが、その中に宮内少輔重方と前阿波守頼佐がみえる。次いで保元元年(一一五六)一〇月に忻子が中宮となった際に、中宮権大進重方(宮内少輔)とならんで権少進惟頼(頼佐子、元勾当)がみえる。
 永万二年七月に惟頼が基房知行国丹波の国守に補任されたのは前述の通りである。重頼が佐渡守に補任されたのはこの前年であった。次いで仁安二年(一一六七)二月に吉田経房が右衛門権佐に補任されたことをうけて慶賀のため各所を回っているが、上西門院(待賢門院娘、後白河の一才違いの同母姉)を訪問した際に、佐渡守重頼が申次を行っており、重頼が上西門院の別当であったことがわかる。これは祖父顕能以来の由緒に基づくものであるが(重頼が幕府成立後、頼朝との関係を持つのもこのため)、その一方で従兄弟惟頼と同様、松殿基房との関係も持ったのではないか。仁安三年九月には重頼の異母(源盛賢娘)弟で上西門院判官代であった能頼が高倉天皇の蔵人に補任されている。嘉応二年(一一七〇)四月には基実の嫡子基通が元服しているが、その家司の中に権右中弁重方がみえている。基通の母は藤原忠隆と藤原顕頼の娘の間に生まれており(平治の乱で没落した信頼の同母妹)、これが重方補任の背景であった。次いで承安元年(一一七一)一二月には摂政基房の北政所の家司に新たに五人が加えられているが、その奉行を行ったのが権右中弁重方であった。

藤原重頼と基房知行国1

 今回、藤原重頼について検討するのは、佐渡守惟頼(国主基房)の前任者であるのが理由である。重頼については国文学研究者中村文氏の論考(「埼玉学園大学紀要」人間学部篇16、2016)がある。丹念に関係史料を収集して述べられているが、政治史的側面がやや弱いうらみがある。それは、重頼の父重方、妻二条院讃岐とその子について言及されているが、その大前提として、勧修寺流顕隆(夜の関白)の子顕能がその祖父であることが認識されていない。顕能は顕頼の同母弟(一三才下)であるが、その妻が鳥羽院と待賢門院の第二皇子(六才で早世)の乳母と女院女房になっているように、鳥羽院だけでなく、女院との関係が深かったが、保延五年(一一三九)に三三才で死亡した。
 その二男重方(生年不詳)が木工助・崇德院蔵人から近衛天皇の蔵人に補任されたのは、父の死から三年後の康治元年六月だった。次いで一〇月には右近将監となり、翌二年四月に叙爵している。久安四年(一一四八)八月一四日には内大臣藤原頼長の妻幸子(德大寺実能娘、公能同母=顕隆娘姉)の三位方家司が定められているが、政所別当に「散位従五位下藤原朝臣重方」、侍所別当に弟「散位従五位下藤原朝臣顕方」がみえている。ともに散位で従五位下にとどまっているように、その昇進は早くはなかった。一方では伯父顕頼流との関係は密で、顕頼の娘が重方の室となり、重方の娘が顕頼の嫡孫光雅の室となっている。また、顕能の姉妹が白河・鳥羽両院近臣藤原清隆の室となり、次いで顕隆の異母弟(母は法成寺上座隆尊の娘)朝隆に再嫁し、朝方・朝雅(後に親雅)を産んでいる。重頼の母は清隆の娘である。
 以上が、重方が鳥羽院判官代となり、後白河天皇の中宮となった忻子の中宮権大進となった背景である。忻子は公能の娘で、その同母(藤原俊忠の娘豪子)兄弟には実定・実家・実守・公衡がおり、近衛天皇皇后多子も同母姉妹であった。そのため後白河院政初期には二条天皇とその子六条天皇との関係が強かった。二条天皇の外戚(母の同母弟)藤原経宗も清隆の娘を室とし、嫡子頼実をなしていた。二条院没後はその実務能力を買われて弁官を歴任し、後白河院政のもとで右大弁にまで昇進した。
 中村氏が述べているように、久寿二年(一一五五)九月に後白河の子守仁(二条)が立太子された際に東宮(こちらは春宮の表記と異なる)傳実能、春宮権大夫経宗、春宮亮親隆(朝隆の同母弟)、春宮大進惟方(顕頼の子)、春宮権大進定隆(清隆の子)とともに、重方の子正六位上重頼が「春宮権少進」に補任されている。応保二年(一一六二)一〇月に父重方の譲りを受けて宮内権大輔となり、永万元年(一一六五)には日向守から佐渡守に遷任している。中村氏は『国司一覧』の記述から重頼の日向守補任を永万元年とするが誤解である。この永万元年七月二五日に二条院が没しており、これが重頼の転換点となる。前述のように、二条派であった外戚経宗もこれ以降は後白河院との対立を解消している。

 

2020年6月18日 (木)

松殿基房の知行国4

 盛隆の同母弟有隆は保元三年(一一五八)八月に蔵人から左近将監に補任され、翌四年には従五位下有隆が筑前守に補任されている。父顕時が知行国主と考えられ、その知行国は甲斐国に併せて二ヵ国であった。盛隆は永万元年六月二七日に前任者藤原資頼(国主経宗)が伊予国へ遷任した跡の丹波守(国主顕時)となった。よって翌二年一月一〇日後白河院庁下文の署判者としてみえる「甲斐守藤原朝臣」は盛隆とは別人で、同じく顕時の知行国であった筑前から弟有隆が遷任したものである。次いで同二年八月二七日には顕時が権中納言を辞任して丹波守であった盛隆を木工頭に任じた。これにより顕時の知行国は甲斐一国となり、松殿基房の知行国となった丹波には藤原惟頼が国守に補任された。
 次いで仁安二年三月に顕時が死亡し、五月一九日には丹波国(基房)と相模国(成親)の相博がなされ、丹波守には成親の同母弟盛頼が相模守から遷任し、相模守には甲斐守有隆が遷任した。有隆は父顕時の死により、松殿基房の知行国の国守となった。有隆と摂関家の関係としては、父方の祖父長隆と母方の外祖父高階重仲がともに摂関家の有力家司であったことが考えられる。有隆の後任の相模守通定とは当ブロクで述べた源定綱の父で『尊卑分脈』には「従五下相模守」との尻付がある。その子の中で定綱が九条家との関係を持ったのに対して、康宗は近衛家との関係を持っていた。そして有隆が再び相模守に復帰しているが、これも知行国主が基房と共通であったゆえの人事であった。兄基実の急死により摂関家の当主となった基房は父忠通の家司だけでなく、新たな人材の獲得も必要だった。それが惟頼であり、有隆であった。大宰府が基房の知行国となり藤原重家が大弐に補任されたのが承安元年一二月八日であり、有隆退任後の相模守として確認できるのは安元元年八月に見任している平業房である。基房の知行国が相模国から大宰府に遷ったことになる。
 異母兄行隆、盛方、同母兄盛隆に続いて有隆も永万二年(一一六六)一月一〇日の後白河院庁下文の署判者=院司としてみえたが、有隆はこの一回のみである。仁安三年七月一〇日に八月四日の高倉天皇の朝覲行幸の定が作成されたが、有隆は兄盛隆とともに装束の役に当てられている。そして行幸当日の勧賞により判官代有隆は従五位上に叙せられている。承安元年一二月六日には院御仏名の定が作成されたが、朝覲行幸の定に準ずるとのことで、有隆は饗と装束の行事に名を連ねている。とはいえ、松殿基房との関係も有する有隆は院司の主流にはなれなかったようで、安元二年(一一七六)三月一〇日には九条兼実のもとに高松院の使者として判官代有隆が訪れている。兼実は高松院の同母姉八条院との間に密接な関係を結んでいた。前述のように三ヶ月後の六月一三日に高松院は急死し、一八日夜の葬儀は生前に関わりの深かった三条実長(中宮姝子時代の中宮権大夫)、藤原隆輔(母美福門院分国周防の国守、内親王姝子の職事、女御姝子の家司)、同母兄盛隆が中心に行ったが、有隆は後白河院からの要請を辞退した。兄隆盛が全体の奉行をするのが理由だと吉田経房が記している(『吉記』)。有隆は高松院の近臣であったが、兄との関係が悪かったのであろう。その後の有隆に関する情報は寿永二年(一一八三)二月の除目で正五位下に叙せられたことのみである。『尊卑分脈』では「右京大夫」とするが、それを裏付けるものはない。なお、顕時流では昇進が遅かった長子行隆が正四位下左大弁まで進み、その子宗行が葉室宗頼の養子となり後鳥羽院政下で権中納言となったが、承久の乱の首謀者の一人として斬殺された。
 以上、基房の知行国に関して確実な情報を加えることができたと考える。

松殿基房の知行国3

 松殿基房の二ヵ国目の知行国の確保は容易ではなかったと書く一方で、藤原重家が太宰大弐になるまで、藤原隆親が播磨守であった可能性があるとの説を述べた。院近臣藤原成親や後述の顕時の例をみれば、基房の知行国は現在判明している以上にあったはずである。大国播磨については、仁安三年(一一六八)から、治承二年(一一七八)に平宗盛の知行国となるまでの一〇年間の国司に関する史料がない。そうした中『兵庫県史』史料編中世四を眺めていたら、『播州増位山随願寺集記』の中に、「仁安三年に太政大臣平清盛が知行国主となり金堂・法華三昧堂の造改を始め、嘉応元年に造営が完了した」ことが記されていた。一次史料ではないが、あってもおかしくない内容である。その成否は確認不能だが、承安二年(一一七二)に重家が大宰大弐に補任される以前の基房の知行国の問題は振り出しに戻る。本ブログでは永万二年(一一六五)に丹波国が基房知行国となり、翌年に相模国知行国主藤原成親との間で相博したとの説を示している。以前は相模国守としてみえる人物と基房の関係が想像できなかったが、この点を今一度追究してみたい。
 仁安二年五月一九日に相模と丹波が相博した後に相模守として確認できるのは、嘉応元年(一一六九)二月から六月にかけて見任している藤原有隆、嘉応二年閏四月に見任している某通定、承安元年(一一七一)一一月に再度見任が確認できる有隆である。大宰府が基房の知行国となったのは承安元年一二月であり、藤原有隆と某通定が摂関家関係者であれば、基房知行国が相模から大宰府に遷ったことになる。五味氏は丹波守藤原惟頼の前任者藤原盛隆と相模守有隆がともに顕時の子であることから、丹波国が顕時の知行国で、盛隆、惟頼が国守となったとされた。ただし、惟頼と顕時の関係は不明であるとも述べられた。五味氏の関心は丹波国が摂関家知行国であったかどうかにあったので、有隆が国守であった相模国もまた顕時の知行国であったとは述べられていない。一つには顕時自身が相博の直前の三月十四日に死亡していることもあろう。
 顕時は勧修寺流長隆の子である。長隆の同母兄為隆、顕隆は公卿となったが、長隆は因幡守在任中の天永二年(一一一一)五月に二九才で死亡している。その時点で顕時(当初は顕遠)はわずか二才であり、その出世は従兄弟である為隆、顕隆の子達に比して遅かった。蔵人に補任されたのが二二才時で、翌年に叙爵し、摂津守に補任されたのは二五才となった長承三年(一一三四)一一月であった。その長子行隆は右少弁藤原有業の娘を母としたが、外祖父有業も行隆が三才であった長承元年に四五才で死亡している。叙爵の年齢は不明だが、二八才であった保元二年(一一五七)一〇月に従五位上に叙されている。次子盛方は行隆より七才年下で、平忠盛の娘を母として産まれた。二〇才で中宮権大進に補任され、父顕時が死亡した仁安二年には三一才で正五位下民部少輔であった。永暦二年(一一六一)には行隆、盛方ともに後白河院庁下文の署判者=院司としてみえる。
 有隆の同母兄(母は藤原信輔の娘)盛隆は正六位下であった久安六年(一一五〇)一二月の除目で修理亮に、次いで仁平四(一一五四)年正月に甲斐守に補任されている。保元二年一〇月には甲斐守として内裏南廊を造営した功で従五位上に叙せられている。異母兄行隆は同じ日に臨時で従五位上に叙されていた。盛隆もまた永暦二年には後白河院庁下文の署判者=院司としてみえ、仁安二年一月には女御として入内した滋子の家司となっている。盛隆は一方では後白河院の女御琮子の侍となっており、仁安二年二月に琮子が八条殿から三条殿に渡御した際には、隆盛も供奉しているが、その後、その職を解任されたため、琮子の同母弟である権大納言三条実房に取りなしを依頼した文書も残っている(『愚昧記』紙背文書)。

 

2020年6月15日 (月)

皇后宮権亮光能2

 舌の根も乾かないうちに訂正記事である(元の「皇太后宮権亮光能」は題名を含めて修正した)。客観的事実を踏まえるならば、仁安三年(一一六八)三月二三日に藤原光能が補任されたのは「皇太后宮権亮」ではなく「皇后宮権亮」でなければならない。そのきっかけとなったのは滋子の入内であったが、皇太后宮権亮には三月二〇日の立后の日に藤原頼実が補任されており、複数の任命は考えられない。頼実は二条天皇派藤原経宗の嫡子であるが、二条院に続いて六条天皇の摂政藤原基実が死亡したことで、経宗が後白河院と妥協する途を選択した。嫡子頼実の皇太后(滋子)宮権亮補任もその一つである。ただし、滋子の母は藤原顕頼と藤原俊忠娘との間に生まれており、光頼、惟方兄弟の同母姉であろう。滋子は七才で外祖父顕頼が死亡し、八才時に父平時信が死亡しており、母の弟である光頼・惟方の保護下で上西門院女房になったと思われる。
 光能は滋子と同様、俊忠の孫(忠成の子)であった。忠成の同母弟俊成は若い頃は顕頼の養子となり顕広と名乗っていた。一方で忠成の妹豪子が德大寺公能の室となり、嫡子実定のみならず、その姉忻子(後白河中宮)や妹多子(近衛皇后)を産んでいた。さらに光能の姉妹の中にも公能の妾となっていた女性がいた。光能の名前も公能の影響であろう。
仁安三年三月二三日に公能が権亮となったのは、実定が大夫を務めていた皇后宮忻子であった。その後、嘉応二年七月には実定に替わって叔父(父の弟)俊成が大夫になり、安元二年九月に、当時は徳子入内により皇太后宮大夫となっていた俊成が出家すると、翌年九月には権大夫を務めていた藤原朝方が大夫となった。それに伴い権亮光能が皇太后宮権大夫となったが、治承三年一一月の平氏のクーデターにより解任された(HPでは1と2を併せた記事に修正)。

2020年6月14日 (日)

六月の近況から2

 将棋の渡辺明三冠は棋聖戦五番勝負第一局で藤井聡太七段に敗れたが、その後の名人戦七番勝負第一局では豊島名人に勝利した。競馬になぞらえて、藤井戦を消化した事で勝負感などが上がったことが大きかったとのコメントであった。敗れた豊島名人はコロナによる対局中断後の初戦で、今後状態を上げていきたいとのことであった。囲碁では対局中断後も次々とネット上で対局する企画が立ち上げられ、トップ棋士間の対局が行われていたが、将棋の方はなかったのであろうか。囲碁は国際化の中にあり、海外のトップ棋士との公式、非公式の対局も行われている。中国リーグに芝野虎丸名人が初めて参加するが、韓国棋士と同様、ネットで中国棋士と対局するようである。
 本来なら延期されていた名人戦が先に行われるべきであるが、藤井七段による記録更新を最優先した将棋連盟が棋聖戦を先に開始した。急ぎすぎた日程のため、藤井七段は和服が間に合わず背広での対局となった。第二局には間に合うとのことだが、そろそろ将棋もタイトル戦を背広と椅子の対局とすべきであり、そのきっかけとなればよい。記録は残るものであるが、本人にとっては眼前の一局一局が大切であり、それほど意味はなかろう。
 囲碁でも三月に開始された十段戦が第二局でストップしている間に、本因坊戦が開幕し、今日で第二局が終了する(井山勝利。現時点で井山とそれを追う一力・芝野の間にはなお差があるが、以前と比べて井山の後半戦のミスの頻度が増えており、逆転されるケースはある)仮に四連勝で井山本因坊が防衛し、十段戦が最終局までもつれると、本因坊戦の方が早く終わることになる。北九州市で予定されていた第二局を日本棋院で開催するという変更がなされたが、こちらは国際戦の日程との調整も必要である。六月一日から始まったLG坏では日本勢五人が一回戦で敗退し、ベスト16に進めなかったが、本因坊戦との関係であろうか、井山、芝野両人は不参加であった。ベスト16は韓国9、中国7であったが、六月五日から行われた二回戦の結果、ベスト8は韓国6、中国2の結果となった。両国のランキング一位である柯潔九段と申眞諝九段の対局は柯九段が勝利したのは流石であるが、近年は中国の方が若手の台頭が早く、逆のケースが多かった気がするが、韓国企業主催の棋戦で韓国勢が維持をみせた(何の根拠もない表現である)というべきか。
 日本棋院の棋士ツイッターを開こうとしたら、エクスプローラーは門前払いであった。ツイッターの方で規制しているようだがびっくりした。仲邑菫初段(11)が注目されているが、男性棋士で最年少の福岡航太朗初段(14)が五月三一日に日本棋院ネット対局(公開)で山下敬吾九段(41)に勝利している。小学校二年生で小学生大会で優勝した山下九段(井山裕太九段とともに最年少記録)が入段したのも14才であった。将棋では考えられない組み合わせではある。福岡初段は仲邑初段と同様、韓国で囲碁修行をした後に日本棋院の院生となり、ノンストップで入段した。男性棋士の入段最年少は趙治勲九段の11才9ヶ月である。

六月の近況から1

 ようやく31.5インチ2K=WQGAモニターが到着した。将来を見据えるとUSBタイプCが備わった42.5インチ4Kモニターが良かったが、価格(3倍)と重量(2陪)に難がある。特に後者は設置スペースとともに問題である。単体利用のテレビなら一旦設置すればまず動かすことはないが、PC用モニターはそうもいかず自由度が必要である。このサイズなら4Kの解像度の必要はないと判断したが、とりあえずは丁度良い大きさである。従来の24インチWQGAモニターをこれに置き換えたが両面見開きのPDFやJPEGファイルを閲覧するのに適している。一太郎の縦書き51文字でも丁度良い大きさで表示できる。今年一月に発売されたモデルだが、なぜか在庫が切れており、ようやく追加の生産が行われた。
 その一方で快適だったキーボードK810が暴走(下への矢印キーを押し続けた状態)するようになり、ロジテックのK780を注文し、これも到着した。過去にキーボードが丸い同社のキーボードを使ったことはあり、且つ快適だったが、今回のモデルはまだ指がなじんでいない。あと邪魔なのがテンキーの存在である。これならばキーボードにスティックでも付けてマウス無しで使えるのがよいが、レノボ製のキーボードはどうであろうか。
 K810の生産が終了したため、ここ二台は中古のキーボードを購入、利用していたが、新品と比べて耐久性には難があるようだ。当方がキーを強く打ちすぎるのも寿命が短い原因かもしれない。東プレのキーボードも使用したことがあるが、ノートパソコン用のストロークが短いものの方が自分には打ちやすい。充電式ではなく、乾電池式なのもめんどうであるが、これも充電可能な単4電池を利用すれば問題ないか。
 と思っていたら、急にキーボードが利用できなくなった。これまでも何度かあったが、久しぶりにDELLのXPS8930(購入して32ヶ月)のブルートゥースが使用不能になった。ネットで対処法を調べて実行しても何の変化もみられない。仕方がないのでUSBタイプのブルートゥースを利用するしかない。これで一旦凌いで、後日USBを抜くと不思議なことに本体のブルートゥースが使用可能になっているのである(すぐに抜くとダメである)。K780にはUSBタイプの2.4Ghz無線レシーバーも附属しており、それで利用することも可能であるが‥‥。バッテリー内蔵ではなく、乾電池式なのは一長一短であるが、しばらく使ってその善し悪しを判断するしかない。
 院政期の政治史と知行国制については鳥羽院政期まではある程度理解していたが、後白河院政期についてはようやくポイントとなる点がおぼろげながらわかりつつある。五味氏『平清盛』や元木氏『平清盛と後白河院』などを再読しつつ、理解の段階を上げていきたい。Edgeについて、ウィンドウズ10付属のものから、クロームベースの新タイプに更新した。エクスプローラー、エッジは起動が遅く、エクスプローラーには対ウィルスの問題もある。使い分けるしかないが、しだいにエクスプローラーを起動する頻度は低くなるであろう。編纂所データベース上のテキストをコピーした場合は文字間の余白が少ないというメリットがある。

 

藤原定隆について

 定隆は長承三年(一一三四)生まれで、光隆の七才年下の同母弟であるが、八才で叙爵し(正月、春宮=躰仁御給)、一二月には備中守に補任されたが、父清隆の知行国であった。一七才で国守に補任された但馬(久安六)と一九才で補任された加賀(仁平二)も父の知行国であった。その一方で後白河天皇即位の翌年(久寿二年)には右兵衛権佐(二月)と春宮(守仁)権大進(九月)を兼ねた。保元の乱の翌年(保元二年)正月には両官を辞して皇后宮(呈子)亮に補任された。その背景として思いつくのは躰仁=近衛並びにその母美福門院との関係であろうか。呈子は近衛の皇后であるとともに女院の養女であった。
 平治元年(一一五九)一〇月には加賀守から丹波守に遷任したが、同年二月には皇太后宮(呈子)大夫重通(叔父)が中宮(姝子)大夫に転じ、四月には同母兄伊実が解官されていた。また同年末には平治の乱が起こり、翌年二月末には同母妹の夫であり二条天皇派の中心であった藤原経宗が解官されてしまった。経宗は定隆の同母弟通成を養子にしていた。七月には丹波守から三河守に遷任しているが、丹波守には前任者の藤原成行(知行国主三条実行)が復活している。三河守の前任者は不明であるが、前年末に平頼盛が三河守から尾張守に遷任したばかりであり、短期間で交替したことになる。同年一二月には美福門院、応保二年(一一六二)四月には父清隆が死亡している。
 一方、阿波国に配流されていた経宗は同年三月に召喚され、長寛二年(一一六四)正月には正二位権大納言に復帰した。その除目で定隆は三河守から越中守に遷任したが、越中国は経宗の知行国とされた。翌年七月一八日には伊予守に遷任したが、伊予国も経宗知行国であった。ただし、経宗が外戚であった二条天皇は六月には子六条に譲位したが、七月二八日に二三才で死亡した。次いで六条を支えた摂政近衛基実が翌永万二年(一一六六)七月二六日に死亡したことにより、一〇月一〇日には後白河院と平清盛の室時子の異母妹滋子の間に産まれた憲仁が立太子された。これにより六条天皇派である経宗も後白河院との関係を修復した。定隆も一二月二日には皇太后宮亮を辞し、仁安二年(一一六七)一月一九日に後白河院が法住寺新御所に移渡した際にはその別当として定隆がみえる。長兄光隆は平治元年五月から永万二年正月までの後白河院庁下文の署判者としてみえるが、定隆はみえない。光隆もその後は建久三年正月の院庁下文にみえるのみである。光隆の嫡子雅隆は暲子内親王が院号宣下により八条院となった応保一年一二月に女院判官代となり、文治二年一〇月の八条院庁下文にも別当として署判を加え、治承四年一二月の高倉院庁下文の署判者としてみえる。
 その一方で、定隆、頼季、通成の同母兄弟と雅隆(三人の同母兄光隆の嫡子)等は仁安二年二月二五日に後白河院女御琮子(父三条公教、母清隆の娘)が八条殿から三条殿へ渡御する際に供奉している。琮子の母もまた同母(藤原家政の娘)姉妹であった。琮子が誕生した時点で光隆は一九才であり、光隆の嫡子雅隆が琮子の二才下であることからすると、姉であろう。
 定隆は滋子が女御をへて仁安三年三月に皇太后に立后されると、皇太后宮亮に補任され、同年八月には院行幸の勧賞で従三位(非参議左京大夫)に叙せられ公卿となったが、二年後の嘉応二年(一一七〇)一〇月に三七才で急死した。なお、定隆の遺児隆子は文治元年に藤原経宗の嫡子頼実(母は清隆娘)との間に女子を産んだが、後に後鳥羽院の子土御門天皇の中宮となった(大炊御門麗子=陰明門院)。当初は定隆と経宗の関係を明らかにしようと思ったが、二条天皇、後白河院との関係などを認識させられた。長兄光隆やその嫡子雅隆をみると、全体として清隆の子達は後白河院との間には距離を置いていたと評価出来る。

2020年6月13日 (土)

藤原俊盛・長清の補足2

 長輔が永治元年(一一四一)一二月に即位した近衛天皇から昇殿を認められたのも一二年後の仁平三年(一一五三)正月であった。翌四年三月に内蔵頭に補任され、一二月には従三位に叙されて公卿となった。長輔の子隆輔(当初の季長を隆長へ改名するが、頼長の子と同じため再改名、晩年には季隆に三度改名)は康治元年(一一四二)一二月に叙爵(大宮御給)し、久安三年(一一四七)八月に従五位上、仁平二年正月に正五位下、久寿二年(一一五五)正月に従四位下とそこそこのスピードで昇進している。中務大輔補任後、違例の周防守(長明はその後承安三年まで中務大輔とみえ、相博したと考えられる)となったのは美福門院分国であったためであった。永暦二年(一一六一)八月には中宮(姝子)亮となり、承安三年(一一七三)に非参議公卿となった。隆輔(季長)、長明、実清はともに藤原清隆娘を母とする同母兄弟であるが、長明のみ公卿にならなかったため生年が不明である。隆輔は実清より九才年上であるが、美福門院分国の国守となったのは実清が最初で、仁平三年に一五才で越前守に補任されている。次いで長明が久寿二年に周防守に補任されており、長清の弟であろう。その後任が従四位上中務大輔であった兄隆輔であったのは女院分国ゆえの違例の人事であろう。隆輔は蔵人、左兵衛佐、中務大輔と中央の官職を歴任していた。
 長輔流と清隆との関係に対して俊盛流は外祖父藤原致兼流との関係が大きかった。俊盛の母の姉は藤原宗通の子成通の室となったが、成通は姝子が親王宣下を受けた際の勅別当であり、母の弟藤原季行が姝子の乳母夫で、内親王家家司であった。俊盛の姉妹は高階盛章との間に永治二年(一一四二)に隆行を産んでおり、俊盛とは同母である可能性が高い。盛章の娘八条院女房三位局は以仁王(1151-)、九条兼実(1149-)との間に子良輔(1185-)を産んでおり、八条院に仕えていることからして隆行の同母妹であろう。季行の娘兼子もまた兼実との間に子良通(1167-)以下の子を産んでおり、季行の嫡子宗能の年の近い同母姉であろう。保元三年(一一五八)八月には季行が太宰大弐を辞して隆行を安芸守に申し任じている。隆行は藤原姓だが、系図では季行の子にはみあたらず、藤原顕盛の娘が鳥羽院近臣高階盛章との間に産んだ子であるが、盛章は保元元年閏九月二五日に病没している。顕盛の室は季行の姉妹(同母であろう)であり、俊盛の母であり、隆行の母は俊盛の同母姉妹であろう。こうした背景から高階隆行が季行の養子に入ったと思われる。隆行は平治の乱後の永暦二年四月一六日までには丹波守に遷任し、翌応保二年(一一六二)二月一九日には二条天皇に入内した藤原育子が立后された事に伴い、中宮権大進に補任されているが、養父で丹波国知行国主であったと思われる季行は同年八月に出家し没している。これにより隆行は丹波守を退任したと思われるが、その後の補任歴としては、仁安二年(一一六七)五月には六条天皇から「前和泉守隆行」が昇殿を許されており、和泉守に補任されたことが確認できるのみである。

藤原俊盛・長清の補足1

 俊盛の父顕盛は白河院の権勢を背景に鳥羽院の要望を無視したため、白河院の没後、鳥羽院により排除され、失意の中で死亡した。長清の父長輔は顕盛の同母(郁芳門院女房)弟で、異母妹得子(美福門院)に登用されたのはこの二人の子達である。長実には多数の室がいたようだが、その娘には中御門宗能の室となった女性もいた。宗能との間に嫡子宗家を産んでいるが、宗能娘で藤原季行の室となり、次いで美福門院の三女姝子内親王の乳母となった女性は同母姉である可能性が高い。その女性が季行の嫡子定能を産んだ時点で宗能は一〇才である。中御門氏は本来、摂関家ならびに待賢門院との関係が深かったが、鳥羽院は待賢門院系の人々を意図的に登用し、美福門院とその子の将来の支持基盤を固めた。蔵人頭と参議に短期間で昇進した藤原清隆も同様の例である。
 長輔は長承三年(一一三四)二月に正四位下に叙せられるまでは順調であった。法勝寺金堂被供養金泥一切経の供養が行われたがことによる勧賞であったが、この日藤原成通(宗通子、従三位)と家長(家保子、正四位下)が同様に鳥羽院御給で叙されている。一方、藤原通基(基頼子、正四位下)は待賢門院給、信輔(経忠子、正四位下)は前斎院統子給であった。同年八月に長輔は院近習を止められ、長親(備後)と時通(伯耆)は国務を一時的に停止された(『長秋記』)。姉である故左金吾(左衛門督)妻も家地・庄園資財雑具等を収公されたとあるが、これは右金吾の御記で、白河院の寵臣藤原宗通のことであろう(左衛門督=西園寺通季であり、前の部分は間違い)。長実の子時通が宗通の養子に入り、宗通死亡により時通が国守であった因幡が長実の知行国となったのはそのためであろう。すでに死亡している顕盛(俊盛の父)の蔵からも用物が召し取られた。この部分に登場する顕頼卿も没収されたとの解釈(角田文衞氏が述べ、五味文彦氏以下の研究者が支持)が誤りであることは前に述べた通りである。また、この処罰が一六才の崇德天皇の意向によるとするのもあり得ない解釈である。得子を寵愛するにあたり、その兄弟による介入を防ぐため、鳥羽院が意図的に行った処罰であった。
 その後、顕盛と長輔の孫のみが取り立てられたのは何故であろうか。時通や長親については現時点ではそのような事例は確認されていない。Wikipediaでは保延六年(一一四〇)一一月二一日に長輔が昇殿を認められたことを復権とするが、前年五月一八日に得子が躰仁(近衛)を産み、六月二七日に若宮入内が行われた際に、殿上人として清隆とともに長輔がみえ、清隆の嫡子出雲守光隆とともに「院殿上人」との注記がある。長輔の場合も長承三年に院近習を一時的に止められたが、長親・時通が間もなく国務に復帰した(ただし、その任を退任した後、官職に補任されることはなかった)のと同様、鳥羽院殿上人に復帰していた。崇德天皇になってからはその末期にようやく昇殿を認められ、保延七年四月八日に右馬頭に補任(妻の父清隆が内蔵頭を辞任して申任)されているが、「崇德が昇殿を止めた」とのWikipediaの記述は誤りである。長輔は鳥羽天皇から昇殿を許され、退任後は院殿上人であった。ただし得子の寵愛開始時に鳥羽院により悪乗り防止の処罰を受けていた。

 

2020年6月 9日 (火)

藤原季行と嫡子定能

 得子の三女姝子の乳母夫となった藤原季行は白河院近臣敦兼(母は堀河天皇乳母兼子)の次男で、母はこれまた近臣として知られる顕季の娘である。同母兄に季兼がいるが、ともに母方の祖父顕季にちなむ「季」を名前に付けている。
 敦兼は一九才で若狭守となり、以後、越後、加賀、越後、尾張と近臣が補任されることが多い国の受領を歴任する一方、白河院の第三皇女令子内親王家の別当を務めた。令子は斎院、鳥羽天皇准母、皇后とされた後、皇太后を経ずに大皇太后となり、そのもとには多数の庄園と女房が集められていた。加賀守在任中の長治二年に従四位上に叙せられると、その後は備中守、但馬守を歴任する一方で、子季兼(能登、阿波)と季行(阿波、能登)を国守として知行国主を務めた。
 季行は大治二(一一二七)年正月に待賢門院御給で叙爵し、大治五年四月には父敦兼の松尾社造進の勧賞と但馬国辞職の替わりとして一七才で阿波守に補任された。次いで長承二年(一一三三)五月には造春日社功により兄季兼と相博して能登守に遷任した。保延五年(一一三九)正月に従五位上に叙せられたのも前斎院統子御給であり、同時に右兵衛権佐を兼ねている。翌六年四月には因幡守に遷任し、次いで康治元年一二月ニハ武蔵守に遷任しているが、ここまでの人事は待賢門院との関係が深かった。季行と『中右記』の記主中御門宗忠の嫡子宗能の娘との結婚も同様の背景のもと行われた。中御門家は待賢門院流に属する。
 ところが、康治二年(一一四三)正月に皇后宮(得子)給で正五位下に叙せられており、以降は鳥羽院・美福門院との関係が強くなる。久安五年(一一四九)一〇月には美福門院庁別当となり、美福門院のもとを慶賀のため訪れる人々の取次を行うようになる。仁平四年(一一五四)八月には得子を母に誕生した鳥羽院姫君が一四才で親王宣下を受けると勅別当藤原成通(季行の姉妹が室)のもとで土佐守季行が家司に選ばれている。次いで久寿二年正月には、播磨、伊予と並ぶ院近臣の指定席である讃岐の国守に補任された。
保元の乱後の保元二年(一一五七)三月には嫡子定能を丹後守とするため讃岐守を俊盛と交替・退任して散位となったが、翌三年三月に大宰大弐となり、退任後の保元四年正月に従三位に叙せられ、非参議公卿となり、二月には姝子内親王が二条天皇の中宮に入内したことにより中宮亮に補任されたが二年後に辞し、翌応保二年(一一六二)八月に出家し四九才で没した。その後家大弐尼が二条天皇没後の永万元年(一一六五)八月に高松院領越後国吉河庄を高野山大伝法院に寄進している。
 季行と尼の子である定能は父の死亡時に一五才で正五位下左少将であったが、公卿補任には左少将補任は欠落している。ただし、仁安二年(一一六七)正月に播磨権介に補任された際には「少将労歴八年」とあり、永暦元年(一一六〇)の補任であろう。同時に正四位下に叙せられているが、高松院当年御給であった。その後、左中将を経て安元二年(一一七六)一二月に蔵人頭に補任され、治承三年(一一七九)正月には参議に補任され公卿となったが、同年一一月の平家のクーデターにより一時的に籠居を余儀なくされた。ただし、俊盛の嫡子季能と同様、翌年正月には復帰し、加賀権守に補任されている。養和元年(一一八一)正月には従三位に叙せられたが、母の弟(同母=長実娘であろう)権大納言宗家の行幸行事賞を譲られたものであった。
 宗家は源義仲のクーデターや源義経の挙兵の影響を受けず、頼朝が推薦した議奏公卿にも入り、文治五年(一一八九)閏四月に正二位権大納言で死亡している。定能が権中納言を経て正二位中納言となったのは叔父宗家の死亡の三ヶ月後であり、その後も建久五年(一一九四)正月には権大納言となり、建仁元年(一二〇一)二月に五三才で出家した後、承元三年(一二〇九)に六二才で死亡した。

2020年6月 8日 (月)

藤原季能とその母

 俊盛の子として唯一知られている季能について補足する。当初は父俊盛の知行国、父が後白河院庁下文の署判者に加わるようになった時期には後白河院分国の国守を務め、治承三年一一月の平家のクーデターで解官されたが、Wikipediaでは平清盛の子基盛の娘を室としている関係で、院と平家の仲介役も務めたとする。確かに解官の一月後には復帰し、父俊盛が務めた内蔵頭に補任され、寿永二年四月には非参議公卿となり、次いで右京大夫と大宰大弐、兵部卿を務める一方で、多子の大皇太后宮大夫にも起用されている。大皇太后宮政所の中心となり、多子の死没(建仁元年一二月)まで仕えた。
 以上はその経歴であるが、ここではその母について述べる。従三位権中納言源雅兼の娘である。季能が一一五三年の生まれなので、その母は一一三〇年前後の生まれで、俊盛より一〇才程度若かったと思われる。雅兼の晩年の子雅頼、定房の同母(源能俊の娘)姉妹である可能性が高い。雅頼は父死亡時に十七才で雅定の後継者となり、正二位権中納言に進んだが、早くから鎌倉幕府と連絡を取っており、その家臣には幕府の初代評定衆の一員となった中原親能がいた。三才下の定房は年上の従兄弟雅定の養子となり、従二位権大納言にまで進んでいる。季能の一一八〇年代以降の昇進に、母の兄弟の存在は大きかったと思われる。
 母その人も、治承四年七月には雅兼の娘「内侍甲斐」が月次祭のため、福原京から京都に派遣されており(『山槐記』)、高倉天皇や中宮徳子に内侍として仕えていた可能性が高い。今回の派遣役については内侍でも希望するものが多かったが、そうした中で選ばれていた。

松殿基房の知行国2

 播磨守補任時の邦綱は四一才で正四位下であるが、前年四月に伊予守に補任され、八月には右京大夫を兼任していた。伊予守の前任の越後守までは藤原忠通の知行国としてよいが、伊予守は独立した国守であったとすべきである。邦綱は永万元年七月一八日には播磨守を辞任して、子隆盛を備前守に任じ、知行国主となっている。摂関家有力家司邦綱は知行国の国守から独立した国守となり、次いで知行国主となった。播磨守辞任の直後には蔵人頭に、翌永万二年正月には参議に補任され公卿となっている。ということで、基房最初の知行国播磨では藤原隆教(忠隆の嫡子だが早世)の嫡子隆親が国守であった。次いで、兄基実が永万二年七月に急死したため、基房が摂政となった。これに伴い新たな知行国に加わったのが丹波国で、藤原惟頼が国守となったが、約一年で相模国知行国主藤原成親と相博した。丹波守には相模守盛頼(成親同母弟)が遷任したが、相模守に補任された人物は不明である(惟頼は前丹波守と呼ばれている)。播磨国の下限を示す史料はないが、承安元年(一一七一)一二月に基房の知行国が大宰府に移り、公卿家司藤原重家が大弐に補任されたと思われる。次いで、安元二年(一一七六)には重家の子顕家が三河守に補任されているが、五味氏の説くように、基房の知行国であった。これに対して二ヵ国目の知行国の確保は容易ではなかった。前丹波守惟頼が承安四年正月に佐渡守、安元二年正月には隠岐守に補任されているが、連続しての確保は困難であった。摂関家領の大半が清盛の娘で基実の後家となった盛子が相続し、基房がその一部しか獲得できなかったのと同様であろう。そして、治承三年一一月の平家のクーデターにより、三河守顕家と隠岐守惟頼はともに解任され、三河国は中宮徳子の分国に、隠岐国は具体的人名は不明だが、平氏関係者の知行国となった。
 とりあえず、ここまでとする。五味氏との違いは、播磨守邦綱は独立した国守であり、その後任隆親から播磨国が基房の知行国となったことと、前述のように、五味氏が知行国主藤原顕時の国守とした丹波守藤原惟頼を、佐渡、隠岐を加えて基房知行国の国守とした点である。書き始めた時点では五味氏はなぜ伊予国を基房の知行国とされなかったのかという疑問からスタートしたが、この点は『平安遺文』の誤植とそれを踏襲した『国司一覧』の誤りというあっけない結末となった。

松殿基房の知行国1

 摂関家知行国の変遷を論じた五味文彦氏は、応保二年(一一六二)正月三〇日に藤原邦綱が国守に補任された播磨国は、忠通から基房に譲られたものとの説を示した。その根拠となるのは仁安二年(一一六七)閏七月日賀茂社神主等解(兵範記紙背文書)であり、永万元年(一一六五)七月一八日に播磨守を辞した邦綱とその後任として補任された藤原隆親の在任中、播磨国は基房の知行国であったとの説を示した。その後、この研究を深めようとする研究者が皆無なのは先駆者五味氏にとっても不孝(幸)なことであるが、五味氏の説で、隆親は正しいが、邦綱の時期は摂関家知行国ではないと考えるので、以下にその論拠を示したい。
 きっかけは、歴博本『顕広王記』永万元年六月二四日条に「国替、丹後〔波〕・伊予云々」とあったことであった。『国司一覧』で確認すると、第一に丹後は丹波の間違いである(ではなかった)ことがわかる。この日に丹波守藤原資頼が伊予守に遷任している。後任は仁安元年八月二四日に任を止められている藤原盛隆と思いきや、伊予守を確認すると、藤原資頼の前任は藤原基房とある。そこで典拠である『平安遺文』三三五六を見ると、昔なつかしい(大学の卒論で扱った)伊予国弓削嶋庄の史料であった。目代安倍資良が奉じた御教書であり、端裏には「左大臣」とあった。ただし、それに続く三三六一号では「右大臣」藤原経宗の知行国となっている。えらく短期間に替わったと思い、網野善彦氏が中心としてまとめられた『伊予国弓削嶋庄』(日本塩業大系)で確認すると、三三五六の端裏も「右大臣」となっていた。しかたなく、東寺百合文書WEBで確認すると、「右大臣」であった。五味氏の論文で伊予国が基房知行国であると述べられていなかったのはこのためであった。
 そこで気を取り直して考えると、『顕広王記』以外の関係史料を欠いているが、伊予守藤原盛隆(父顕時が知行国主であろう)と丹波守藤原資頼(知行国主は祖父経定の異母弟右大臣経宗ヵ。両者の間には二〇年近い年齢差がある。資頼の父頼定は永暦元年二月に天皇親政派の中心である叔父経宗とともに解官されており、その後復帰したが、この時点では正四位下加賀権介であった。)の間で相博が行われたと考えられる。ただし、二〇日余で資頼は越中守定隆(清隆の子だが、こちらも経宗の知行国)と相博している。

2020年6月 7日 (日)

藤原俊盛の補足

 なぜか認識していなかったが、永万二年(一一六六)一月一〇日後白河院庁下文の署判者の中に俊盛(従三位藤原朝臣)の名が見えていた。前年六月には二条天皇が死亡しており、ギクッとした。長寛元年一一月四日八条院庁下文には「内蔵頭藤原朝臣」として俊盛が近江守藤原実清とともに署判していた。
 『公卿補任』長寛二年(一一六四)の項には、一月二六日に従三位に叙せられ公卿となり、「行幸院、院司」と付記されている。意味が不明確なので、確認すると二条天皇が法住寺殿の後白河院のもとに朝覲行幸を行ったことによる勧賞である。後白河院が年初の御幸を行ったのは一月四日であった。過去の叙位をみると久安六年(一一五〇)正月二〇日には近衛天皇の朝覲行幸の勧賞として正四位下に叙せられていた。「美福門院御給」とあり、女院との関係によるものであった。長寛二年の「院司」とはすでにこの時点で後白河院司であったことを示すものであろう。官職の補任については、大国讃岐の国守に次いで、応保二年一〇月二八日に内蔵頭に補任されていた。長寛二年二月八日には平教盛が内蔵頭に補任されており、これ以前に俊盛は庶子季盛を周防守に任じるため、内蔵頭を辞任していた。
 Wikipedia「藤原俊盛」の項には、美福門院の死後、後白河院の側近に転じ年預別当となり院の雑事を担当し、その功で従三位に叙せられたとあるが、どこまで確認できるであろうか。参考文献には①橋本義彦「藤原俊盛」(『日本史大事典 5』1993年)、②五島邦治「藤原俊盛」(『平安時代史事典』1994年)、③佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」(『日本史研究』598号、2012年)があげげられていた。②は未見だが、③には関連する記述は確認できず(書かれている内容にも感心するものなし)。①には年預別当となり院の雑事をつかさどったことのみ記されていた。
 俊盛は鳥羽院政期にも院の御所の造営により遷任功を得ており、地方支配には精通していた。後白河院政期では、仁安二年(一一六七)正月に移渡した院御所造営を讃岐と周防の知行国主として請負っている。また移渡の儀式では五菓を年預別当=大皇太后宮権大夫俊盛が調進している。全ての史料を確認していないが、美福門院の没後すぐに後白河院の側近となったとの部分は確認できなかった。当初は美福門院の娘八条院庁の別当であったが、二条天皇の死により主導権を得たい後白河が手腕のある俊盛を取り込んだのではないか。八条院のもとには、俊盛と同様に美福門院の甥である藤原実清もいた。応保元年(一一六一)一二月の院号宣下の際に、当時、宮中の執事であった実清の処遇が問題となっている。五位判官代・執事か、あるいは五位別当か、さらには違例ではあるが臨時に四位に叙して別当にするかであった(成頼卿記)。結局は五位判官代であったが、実清の実務能力の高さを示すものだろう。同じ甥ではあるが、美福門院が死亡した時点で、実清は二三才であるのに対して俊盛は四二才と一世代近い差があり、一九才である子季能に近かった。ちなみに八条院は実清より三才年上であった。八条院庁は次第に実清が中心となり、俊盛は二条天皇、後白河天皇を含めて活動の範囲を広げ、その結果、内蔵頭に補任されたのだろう。俊盛が永万二年一〇月二一日に大宮権大夫に補任されたのも、同様の分脈で理解できるのではないか。

2020年6月 5日 (金)

八条院関係者と知行国4

 ここで問題となるのは、俊盛が出家するまでの一一年間にわたって大皇太后宮(多子)権大夫を務めた意味である。俊盛自身は叔母美福門院の分国の国守を四ヵ国にわたって務めている。当然、女院の娘である八条院、高松院の有力な支援者であろうが、形の上では両院の別当を務めた形跡はうかがわれない。仁安二年には二人の子季能(讃岐守)と季盛(周防守)の知行国主として院御所の造営を実現している。非参議公卿ではあるが、知行国の経営手腕に優れた人物であった。権大夫補任の四年後の嘉応二年(一一七〇)には知行国であった遠江国池田庄を松尾大社に寄進し、太政官符を得ることに成功している。鳥羽院近臣藤原顕頼が遠江国知行国主であった際(一一三八~一一四五)に、河村庄の税が松尾大社供御料に宛てられていたが、その後、新日吉社に寄進されたため、神事に支障が出たとして新たな庄園の寄進を求めていた。これに俊盛が応え、翌嘉応三年に政府が立券を認めたものである。田数三〇〇町を越える大規模領域庄園であった。池田庄が大皇太后宮に寄進された訳ではないが、これとは別に大皇太后宮領庄園はあったはずである。多子は建仁元年一二月に五三才で死亡した。現在に到るまで最後の大皇太后である。
 なお、十分に意味が理解できていないが、仁安二年(一一六七)から元暦元年(一一八四)まで一八年間弱大宮権亮を務めてきた一条能保は六月五日に讃岐守に補任され、権亮を止められたが、藤忠季を任じたとある。次いで七月三日には権亮を譲り藤原長経が補任されたともある。前出の忠季とは法勝寺執行能円の娘を室とした中山忠親の子忠季であるが、建久七年(一一九六)正月に正四位蔵人頭兼右近衛中将で死亡している。三〇才前後であるが、公卿にならなかったため、その経歴の詳細は不明であるが、能保もまた能円の娘を室としたおり、忠季とは関係があった。長経は八条院の寵臣実清の子で、女院分国丹後の国守であった長経であろう。その経歴をみても、寿永元年八月に皇后宮(亮子)権大進に補任されているが、大宮権亮には補任されたことはない。ただ、頼朝の妹を正室とする能保と八条院近臣長経の関係は注目すべきものである。
 これまで述べて来た記事は、頼朝の挙兵に後白河院が深くかかわっていたという近年有力となった説が根拠無き虚像であることを明らかにするためである。「反後白河」とまで言えなくとも「非後白河」というべき集団に属する人々について述べている(なお途中である)。八条院は上西門院とともに「非後白河」の人々を結びつけたが、その一方で、大皇太后宮多子、皇太后宮呈子(九条院)、皇后宮忻子の存在も関係者を結びつけたとの見通しのもと、美福門院の寵臣俊盛について述べた。俊盛とその子孫はなぜか八条院との直接的なつながりは明確ではないが、やはり非後白河という流れで動いていた(つづく)。石井進氏が八条院領に対する後白河院や院司の支配の強さを説かれたのに対して、五味氏はその根拠となる点を一々潰していき、八条院は後白河や平家とは独立していたことを明らかにした。従来述べていた「待賢門院(・崇德院)流」の概念のみでは説明が不十分なため、あらたに検討している。

八条院関係者と知行国3

 建久七年一〇月には大和国礒野郷住人義弁法師が多武峰御墓守長紀助頼を殺害する事件が起き、役人が逮捕に向かったところ逃亡していた。この義弁法師は地頭仲教入道家人と号したり、興福寺東西堂舎人と称していた。仲教が幕府から礒義郷地頭に補任されていたことがわかる。仲教と広元娘の子である教厳は六条若宮別当法師と記されている。初代別当が広元の弟季厳で、教厳は正治二年(一二〇〇)閏二月に二代目別当に補任されている(「六条八幡宮造営注文について」)。
俊盛の嫡子季能は永暦元年(一一六〇)に一八才で美福門院分国越前の国守となり、女院の死後は父俊盛の知行国の国守を務めていたが、鹿ヶ谷の陰謀が発覚した安元三年(一一七七)正月に突如、遠江から新たに後白河院分国とされた周防の国守となった。周防守はそれまで八条院関係者が務めており、二五才の季能もその関係者であった。ところが、出雲守に起用していた北面出身の寵臣藤原能盛の国替(大社造営が現実の課題となったため)が必要となり、わずか半年で能盛に玉突きされる形で讃岐守に遷任した。讃岐国はそれまで建春門院の分国であったと考えられるが、女院の死が契機となった鹿ヶ谷の陰謀後、後白河院分国とされ、季能が遷任した。次いで平重盛が死亡したことで、その知行国越前を奪って、季能を遷任させ、これが平家のクーデターの原因の一つとなり、クーデターで季能は解官された。季能二七才である。季能には人事を拒否する選択肢はなく、季能は本当に後白河の寵臣だったのだろうか。以前述べた、藤原光能と同様、後白河院が使える人物として利用したのみではないか。寿永二年(一一八三)末には三ヶ国の知行国主であったが、翌年には復活した父俊盛に知行国主を交替している。季能の室が清盛の次男基盛の娘であったのは父俊盛が意図して行ったものであろう。
 結果として季能は正三位非参議にとどまり、極官は大宰大弐ないしは兵部卿であろうか。その一方で、四八才であった正治二年四月一日に父が権大夫を務めた大皇太后宮多子の大夫に補任され、建仁元年(一二〇一)一二月に多子が死亡するまで務めている。大宮大夫は長らく空席で、権大夫を葉室光頼の子光雅が一三年間務め、正治二年正月二二日に大夫に昇格したが、直後の三月六日に辞任してしまった。四月一日に後任となったのが季能であった。

八条院関係者と知行国2

 保元の乱後、多子の位置は低下したが、二条天皇が入内を求めたことで、その存在感は回復した。保元三年に大夫忠能が死亡すると、大夫は空席のままで、二七才の権大夫德大寺公保(非参議右兵衛督)が責任者であった。多子が平治二年正月に入内すると、正月には平頼盛が亮に、四月には権大進に平経盛(九才年上の異母兄)が起用された。二年後の応保二年七月に頼盛が修理大夫に補任されると、経盛が亮に補任された。仁安元年には公保が大夫に昇進した跡に俊盛が権大夫に補任されたものである。
 安元二年二月に原因は不明だが、平経盛が亮を辞任した。ところが、八月には大夫公保が出家し、翌治承元年九月には権大夫俊盛が出家したため、治承二年(一一七八)正月に経盛が権大夫に補任された。俊盛自身は治承三年一月六日の言仁親王(安徳)五〇日の行事で遠江国知行国主(大宮権大夫入道)として子である国守盛実とともに負担をしており健在ではあった。その他の役人で確認できるのは仁安二年一二月以来、権亮をつとめている一条能保のみである。能保は持明院通重と德大寺公能の娘との間に久安三年(一一四七)に生まれた。後に室とする坊門姫の同母兄頼朝と同年齢である。大夫公保(公能の異母弟)との関係で起用されたのだろう。この時点で坊門姫とは結婚しており、仁安二年には後に九条兼実の次男良経(兄良通が早世したため嫡男となる)の正室となる娘が生まれている。経盛は寿永二年の平家の都落ちまで権大夫を、能保は翌元暦元年まで権亮を務めた。
 俊盛の没年は不明であるが、元暦元年(一一六四)九月には大嘗会御禊の院御桟敷造進が三位入道俊盛とその知行国伊賀・常陸・丹波に課せられている。ただし、伊賀は平家与党の謀叛が発生したこともあり、大内冠者惟義が知行しており、有名無実だと中山忠親が述べている。『吾妻鏡』では元暦元年三月に惟義が後の守護に補任されたとしている。国守については元暦元年一一月一七日の大嘗会に関する叙位で丹波守藤原盛実が従四位下に叙されている。盛実は俊盛の子で、前年一二月の時点では俊盛の子季能の知行国備後の国守であった。この当時、季能は常陸(介藤原俊長)、伊賀(守藤原仲教)の国主で、伊賀・備後両国が平重衡に焼討された興福寺造進に宛てられていた。それが翌年に原因は不明だが、父俊盛が国主に復帰し、備後が丹波に変更され、国守盛実が遷任している。これまで多くの造進を行った俊盛に期待したのであろうか。伊賀・常陸については国守の変更はなかったと思われる。常陸介俊長は「俊」の字から俊盛の子ないし兄弟であろうが、仲教と俊盛の関係は不明である。
 仲教は「七宮坊官、上座」との注記がある僧仲祐の子であるが、注目すべきは、大江広元の娘を室としていることである。頼朝が建久二年(一一九一)に上洛した際の記事にも度々登場する。一一月八日には六波羅の頼朝のもとに後白河院との会談用の御直衣を届け、一三日には頼朝が朝廷に送る砂金、鷹羽、御馬の御解文を仲教を通じて吉田経房のもとに届けさせている。次いで建久六年三月には東大寺供養に向かう頼朝の供奉を行い、四月の石清水八幡宮参詣にも供奉している。

八条院関係者と知行国1

 美福門院の分国については五味文彦氏の研究で明らかにされたが、それ以降の目立った進展はみられない。死亡時の女院分国は①越前(国守季能)、②若狭(国守隆信)、③丹後(国守実清)、④周防(国守隆輔)であった。②の隆信は女院の乳母伯耆と夫藤原親忠の間に生まれた女院女房加賀の子であった。加賀はその後、藤原俊成と再婚し定家を産んでいる。残る三人は女院の甥③と甥俊盛の子①④である。五味氏は女院分国は父長実の知行国の継承分を基本としつつ四ヵ国であったと評価した。これに対して八条院の分国とされているのは丹後(国守長経=実清の子)のみであり、時期的にも数量的にも限定され、膨大な庄園=八条院領の相続者との評価との間にズレが生じている。以下では、八条院関係者の知行国を含めて検討したい。知行国主の上に八条院がいる可能性も残されている。
 ①季能はその後、丹後、讃岐、遠江と遷任したが、美福門院の近臣であった父俊盛が知行国主であった。その後、遠江国は弟盛実に国守が交替し、季能は後白河院分国である周防守となり、その後も院分国である讃岐、越前の国守を歴任し、平家のクーデターで解官された。最初に後白河院分国となるまでの周防国に注目する。周防国は女院の死後一年余り隆輔が国守に在任し、応保二年(一一六二)正月に源時盛に交替している。父師行が知行国主と考えられる。父師時と異母弟師仲が待賢門院の近臣であったのに対して、師行は保延四年(一一三八)三月以降の鳥羽院庁下文の署判者にみえ、院庁別当であった。保延七年には播磨国田原庄を鳥羽院庁に寄進し、永治元年には丹波国多紀庄を歓喜光院に寄進し、翌二年から二期八年間、長門守を務めている。保元の乱後は、保元二年(一一五七)に子有房が但馬守、応保二年には子時盛が周防守に補任されており、師行が知行国主であったと考えられる。この時期の師行は後白河院ではなく、美福門院と八条院の近臣であった。時盛の後任の周防守は仁安二年(一一六七)正月に見任している藤原季盛で、父俊盛が知行国主であった(俊盛は内蔵頭であったが、長寛二年二月八日には平教盛が補任されている。俊盛が内蔵頭を辞して子季盛を周防守に任じた可能性が高い)。仁安二年正月に大宮権大夫俊盛が子である讃岐守季能と周防守季盛に協力させて造営した東山御所に後白河院が移渡している。これにより季盛は重任功を認められた。
 仁安三年八月一二日には高階信章が周防守に補任されている。信章は系図にはみあたらないが、藤原経家等との複数のトラブルを起こしたことで周防守を解任し、叙籍されたためであろう。高階清章の娘が藤原実清の室となり、長清・長経を産んでいる。清章の兄弟盛章の娘が八条院女房三位局であり、女院の養子となっていた以仁王の室となっている。以仁王の死後は九条兼実との間に良輔(1185-1243)を産んでいる。清章の子が信章であろう。信章が濫妨行為により解任されると、師行の嫡子有房が周防守に補任された。以上のように美福門院没後の周防守は八条院の関係者であった。
 美福門院没後の俊盛の知行国(除周防)を確認すると、③丹後守実清の後任となったのは俊盛の子季能であった。季能は長寛二年(一一六四)には讃岐国に遷任し、嘉応元年には遠江守に遷任した。いずれも父俊盛の知行国である。安元三年(一一七七)に季能は後白河院分国周防に遷任したが、俊盛の知行国遠江は継続し、新たに子盛実が国守に補任され、養和元年(一一八一)三月に蓮華王院御塔供養功で重任したことが確認できる。次いで盛実は常陸介に遷任し、さらに寿永二年(一一八三)一二月二二日には備後守に遷任しているが、この両国は俊盛の嫡子秀能の知行国であった。が、俊盛の知行国は以上であるが、注目すべきは、清盛が春宮大夫に転じるのと時を同じくして、仁安元年一〇月に俊盛が大皇太后宮(多子)権大夫に補任されていることである。

 

石見守仲秀について

 建治三年(一二七七)から翌四年にかけての石見守であると推定した「仲秀」について、佐渡守源仲秀と同一人物としたが、偶然、系譜上の位置づけが明らかになったので訂正する。仲秀は藤原仲綱の子である。大江広元の娘を妻とした伊賀守藤原仲教(別記事をアップする)の曾孫となる。仲教の子教厳が大江広元の弟季厳が初代別当であった六条若宮八幡宮の二代目別当となっている。仲教の子では仲房とその子孫が受領を務めている(尊卑分脈)。仲房と仲綱には「尾張守」とあるが、一次史料では確認できない。嘉禄二年(一二二六)八月五日に「非蔵人藤仲綱」が昇殿を認められ左兵衛尉に補任されている(『蔵人補任』)。同年一一月の五節に出仕した殿上人として「藤原仲綱」がみえる。蔵人との肩付のある菅原高長に続く七人(末尾が仲綱)は非蔵人であろうか。嘉禎三年(一二三七)一〇月一八日時点では「蔵人仲綱」とみえる(『民経記』)。仁治三年(一二四二)八月一九日に後嵯峨天皇中宮姞子(西園寺実氏娘)の初度入内が行われているが、行列使の前を務めたのが従五位下右馬権助仲綱であった。文永四年(一二六七)七月二九日には広橋経光のもとを仲綱が来談している(『民経記』)。
 この仲綱の子の内、仲光が伊賀守、仲兼が長門守、仲秀が石見守と系図に記されているが、唯一、一次史料で確認できるのが石見守仲秀である。三条実躬に仕えていたため、その日記『実躬卿記』に度々登場し、実躬とその父公貫の寺社参詣に同道している。嘉元三年(一三〇五)一一月一六日の除目では従五位下に叙され、翌徳治元年(一三〇六)三月三〇日の除目では宮内丞に補任されているが、公卿である正三位参議源顕資の申請により実現している。確認すると、二月五日に顕資は宮内卿に補任されており、宮内丞の推薦が可能であった。仲秀の兄弟左近将監仲頼の子仲宗には「実仲秀子」との注記がある。仲頼も実躬に仕えていたようで『実躬卿記』に登場するが、その他の仲秀の子を含め詳細は不明である。

2020年6月 4日 (木)

皇宮后権亮光能1

 藤原光能については何度か言及しているが、『公卿補任』の記事を検討したい。当方が利用しているのは国会デジタル版『公卿補任』と編纂所大日本史料総合データベースで閲覧できる『日本史総覧』作成のための手書き史料である。前者は参議補任までを記し、後者は死没するまでの経歴を示している。最も大きな違いは、仁安三年(一一六八)三月二三日に光能が補任された職であり、前者は「皇太后宮権亮」とするのに対して、後者は「皇后宮権亮」とある。皇太后とは子である高倉天皇が二月に即位したことをうけて皇太后に立后された平滋子であり、皇后宮とは後白河院の皇后忻子である。滋子を立后するため、皇太后であった呈子に院号宣下がなされて九条院となった。
 現在の国史大系本は確認していないが、それに依拠する可能性が高いWikipedia「藤原光能」の項では「皇后宮権亮」としている。前にアップした「藤原光能について」では後者を採用していたが、題名からわかるように後者が正しいので訂正する(今回の記事そのものを、最初にアップしたものから大幅に修正した)。厳密に言えばもう一ヶ所違いがある。同年八月四日に正四位下に叙せられた記事で、前者は「朝覲行幸賞・右少将・亮」とし、官職に変更がなかったことを記すが、後者は「朝覲行幸賞、右中将、皇太后宮権亮」とやや詳細に記している。これは「右少将」が正しく「右中将」は誤りである。
 光能は治承元年(一一七七)九月六日に皇太后宮権大夫に補任されている。この時点では滋子は院号宣下をうけて建春門院となり、さらには病没している。清盛の娘徳子が高倉天皇に入内して中宮になったことにより、中宮育子が皇后宮に、皇后宮忻子が皇太后宮に変更された。光能はずっと忻子の役人であり、叔父にあたる皇太后宮大夫藤原俊成が出家したことに伴い、権大夫朝方が大夫となり、光能が権大夫になった。一般的には光能は後白河院の寵臣の一人とされるが、ある意味で後白河の即位とともに中宮とされ、その後、皇后をへて皇太后になりながらほとんどスポットライトが当たっていなかった忻子の役人となっている。
 忻子(德大寺公能の娘)が保元元年(一一五六)一〇月に中宮となった際の大夫は当時の閑院流で鳥羽院に最も重用されていた三条公教であった。翌年九月に公教が内大臣に昇進したため、大夫は公教の叔父季成に交替した。皇后宮となっても変わらなかったが、長寛三年(一一六五)二月に季成が没したため、忻子の五才下の同母弟である德大寺実定(多子の一才上の同母兄)が大夫となった。次いで、嘉応二年(一一七〇)七月には忻子の母の兄弟藤原俊成が大夫となった。前述のように光能は朝方を補佐する権大夫となったが、治承三年(一一七九)一一月の平家のクーデターで参議・右兵衛督とともに権大夫も解官された。治承五年三月には朝政に復帰したが、権大夫となることはなく、養和元年に空席だった権大夫に起用されたのは、俊盛の従兄弟で高松院の側近であった隆輔(その後季隆に改名)であった。

2020年6月 3日 (水)

多子・呈子・姝子2

 これに対して前年に院号宣下を受けた暲子は、八条院庁別当に雅通と美福門院の従兄弟家成の子隆季と家明隆輔の弟家明が並び、運営の中心となったのは隆輔の同母弟実清であった。「八条院」の名も、女院が京・八条の実清の館を御所としたことに由来している。
 美福門院領は八条院と高松院に分割して相続されたと思われるが、安元二年二月の八条院領目録が残っているのみで、その四ヶ月後に急死した高松院領の実態は不明である。文治二年に御家人が地頭となり年貢未進がみられる下総・信濃・越後三箇国の庄園の注文が作成されているが(『吾妻鏡』)、越後国青海庄と吉河庄に高松院御領との注記が付されている。青海庄にはこれ以外の庄園領主に関する史料はみえないが、吉河庄は年月日未詳大弐尼奉書(平安遺文四七一八)と永万元年八月一四日高松院令旨(同四八一二)が残っている。ともに『根来要書』に収録されているが、前者については『角川地名辞典』(国立歴博データベースに引用分)では保延六年、編纂所平安遺文データベースには永治二年とされているが。『要書』には源為義の保延六年の誓状と永治二年ヵとされる書状が含まれているが、前者と後者の二通が一連のもの(永万元年)との理解も可能で、年代比定の根拠は不明である。大弐尼は高松院姝子の乳母であった季行の妻(中御門宗能の娘)であろう。季行は保元三年三月に大宰大弐に補任され、八月に子隆行が安芸守に補任されるため大弐を辞任している。よって、大弐尼奉書は保元三年以降のものとなり、前述のように永万元年のものである。
 越後国における庄園制の形成において、鳥羽院近臣藤原家成が保延三年から仁平四年(一一三七~五四)にかけて知行国主であったことが指摘されており、前者を棚上げした上で、この時期に家成を仲介として美福門院に𠮷河庄が寄進・立券されたと考えることは可能ではある。吉河庄は高松院により、鳥羽院が造営し長承元年に落成供養が行われた大伝法院に寄進された。八条院領を構成する御願寺領ならば、高松院の死により八条院領となった可能性が大きいが、それとは別の扱いを受け、後白河院の大庄園群である長講堂領の建久二年所領目録にみえている。
 永暦元年九月の伊実の死亡後は、大夫とともに空席であった皇太后宮権大夫に、応保二年四月に平清盛が補任され、伊実の子清通が権亮に補任されている。天皇親政を目指す二条が育子入内で摂関家と連携して後白河を押さえ込む中、清盛は中立的立場を選択し、フリーハンドを得たともいえる。   
 二条天皇は永万元年(一一六五)六月、自らの病気のため幼い六条天皇を即位させたが、七月に二三才で死亡した。前述の高松院令旨はその翌月のもので、天皇の死により高野山大伝法院に寄進したのだろう。これにより、後白河院と女御平滋子の間に産まれた憲仁を皇太子とする動きが強まった。翌永万二年一〇月には実現し、皇太后宮(呈子)権大夫であった平清盛が春宮大夫に遷任し、二ヶ月後には子重盛と交替している。清盛の後任として皇太后宮権大夫となったのが頼盛であった。頼盛の立場は依然として後白河院とは距離を置いている。

 

多子・呈子・姝子1

 頼盛について確認する中で、永暦元年(一一六〇)四月の大皇太后(多子)宮亮補任と、仁安元年(一一六六)一〇月の皇太后(呈子)宮権大夫補任の位置づけを確認することが必要となった。近衛天皇に入内し、皇后(多子)と中宮(呈子)となった両人は過去の人であり、その役人に補任されることは意味がない(=頼盛は非主流派)ようにも思われる。とりわけ、多子はその入内を推進した養父藤原頼長とその子が保元の乱で死亡、配流となった.そのため、多子の実父德大寺公能が別当、頼長の嫡子兼長が権大夫という体制が、公能の従兄弟で非参議公卿忠能(経忠子)が大夫、公能の異母弟右近衛権中将公保が権大夫というグレードダウンした体制となった。摂関家家司がそのサポートにあたることもなったが、保元三年八月に即位した二条天皇が多子に再入内を求めたことで、二条親政下では存在感が上昇した。頼盛は後白河院ではなく二条天皇の側に立ったともいえる。
 後白河天皇の即位とその室忻子が中宮となったことを受けて、呈子は皇后(多子は皇太后)となったが、叔父(重通)と兄(為通の死により伊実)が呈子を支える体制に変化はなかった。保元三年二月に後白河の同母姉統子内親王が准母として皇后に立后されたことで、呈子は皇太后(多子は大皇太后)となった。次いで保元三年八月に暲子内親王の同母妹である姝子内親王が二条天皇に入内(中宮)すると、保元四年には叔父重通が中宮大夫に転じ、皇太后大夫は空席となった。姝子は統子内親王の養女となっており、保元四年二月に院号宣下により上西門院となった統子が母待賢門院から継承した所領の相続が期待されていた。
 平治の乱を経て、永暦元年(一一六〇)一二月に美福門院が四四才で死亡し、応保元年(一一六一)一二月には美福門院の後継者ある暲子内親王が院号宣下をうけ、八条院となった。次いで応保二年(一一六一)二月には姝子が院号宣下により高松院となったが、これは藤原忠通の娘育子の入内(中宮)が実現するための方便であった。育子は德大寺実能の子で忠通の養女との説もあるが、中宮大夫兼実(忠通の子)以下の顔ぶれに德大寺関係者はおらず、忠通の実子であろう。
 姝子の中宮大夫であった源雅通は、姝子に先立ち院号宣下を受けた姉暲子の勅別当となっており、中宮権大夫実長も新たに入内した育子の中宮権大夫に転じており、高松院となった姝子を支えたのは乳母夫藤原季行に替わって中宮亮となったばかりの藤原隆輔である。姝子は仁平四年に内親王、保元元年に二条天皇に入内し女御、同四年に中宮となったが、従来内親王、女御辞代の家司・職事として支えて来た中心メンバーで中宮の役人となったのは乳母夫季行(亮)のみであり、隆輔や平頼盛ははずれている。高松院については角田文衞氏「高松女院」(『王朝の明暗』)があるが、女院そのものの分析にとどまっており、女院研究の中でも言及されていない。


 

2020年6月 1日 (月)

摂津国富嶋庄2

 重家後の摂津守は藤原俊経、惟雅、貞憲、盛頼と続いて、平治の乱時の源頼憲となる。仁平三年九月二六日に父行国が死亡すると、その遺産などをめぐり兄と摂津国で合戦をしている(『本朝世紀』)。このメンバーの中で右衛門督を知行国主とした可能性が大きいのは、重家で、右衛門督とは二一才年上の従兄弟で鳥羽院の寵臣であった家成である。家成の母は堀河・崇德両天皇の乳母であり、待賢門院との関係が深かったが、大治四年に死亡している。女院の死後家成は、鳥羽院の寵愛を受けた美福門院との関係を強めている。家成は鳥羽院皇后となった泰子(忠実娘、高陽院)の皇后宮権大夫も務めており、摂関家との関係も維持していた。解状の具書として待賢門院庁下文案二通が副進されているように、当初、富嶋庄は待賢門院領として立券された。それが女院の死後、国衙領に戻されたのである。
 家成は仁安四年五月七日に病により急死しており、これを解状では「夭亡」と記したのだろう。一年前の仁平三年四月六日に摂津守は重家から俊経に交代している。俊経のもとで再び富嶋庄は庄園として認められたのだろう。ただし、待賢門院関係ではなく、鳥羽院・美福門院の御願寺である歓喜光院の末寺弘誓院領として。『地名辞典』では言及されていないが、富嶋庄の初見史料は安元二年二月の八条院領目録ではない。久寿二年一二月二九日太政官符案(随心院文書、『平安遺文』未収録だが、『兵庫県史』史料編・中世八にあり)であり、この時点で弘誓院領の一つとしてみえる。これとは別に歓喜光院領にも摂津国富嶋庄がみえるが両者は所在地を含めて別物である。
 以上、知行国制を考える上で、鳥羽院の寵臣藤原家成とその従兄弟重家の関係を明らかにできた。富嶋庄は待賢門院領から、一旦整理をされた上で、美福門院とその娘八条院の庄園となった。このような例は外にもあろうが、その変更の原因は様々ではないか。それと同様に、待賢門院関係者が後に八条院関係者としてみえることも珍しくはなかろう。待賢門院・上西門院母娘と美福門院・八条院母娘の関係も対立の面のみみると、より重要な点を見落としてしまう。その一つの見方が「非後白河院」というものである。後白河も待賢門院の子ではあるが、結果としてそれまで同居していた同母兄崇德を陥れることになったため、待賢門院流の人々には後白河院とは距離を置いた人物も少なからずいた。そのあたりを見極めないで、反平家=後白河院方との公式で政治史をみると、誤った理解を生みかねない。

摂津国富嶋庄1

 『兵庫県史』史料編・古代三の中に、永暦元年七月三日広隆寺(京都太秦)所司等解(申状)がある(東寺百合文書)。寺領摂津国富嶋庄を当任国司が、以前の右衛門督が知行国主であった際の例にならって国衙領に戻そうとしていることに対して、庄園として認めることを訴えている。この時点では弘誓院領で、本所である美福門院は健在である。富嶋庄については、『角川地名大辞典』がネットで公開されているが、そこでは右衛門督を平治の乱で処刑された藤原信頼と解釈している。ただし、信頼は摂津国との関係がなく、半年前に処刑されたばかりで、「夭亡」したとの表現ともずれている。右衛門督補任は処刑の一年一ヶ月前の保元三年一一月八日である。当任も問題となるが、平治の乱の最初のクーデターで河内国の源頼憲が摂津守に補任されたようだが(『平治物語」古活字本)、信頼とともに滅亡した可能性が大きく、応保元年九月一五日に辞任した小槻永業である可能性が高い。永業の父政重も康治元年に摂津守に補任されている。小槻氏のような実務官僚は在庁官人と結んで庄園に対して厳しい対応をとることが多かった。
 小槻政重の後任として久安二~三年に皇后得子(美福門院)の乳母夫藤原親忠が摂津守に補任されているが、久安四年一一月五日には筑前守藤原重家と相博している。重家は藤原顕季の孫であるが、父顕輔は白河院の勘気にふれ失脚し、院の死後、崇德天皇中宮聖子の中宮亮に起用されて復活し、崇德天皇の治世である保延三年に従三位公卿に列せられた。重家も長承三年に待賢門院判官代から崇德天皇の蔵人となっている。摂関家並びに待賢門院・崇德母子との関係が強かった。ただし、待賢門院の没(久安元年)後は摂関家並びに美福門院との関係が強くなる。親忠との守相博もその流れで行われたものであろう。仁平三年には女院の側近藤原俊盛の兄弟であった信盛が急死したことを受けて上野介となり、永暦二年には親忠の孫である若狭守隆信と相博している。若狭守と能登守をそれぞれ一年弱務めた後に刑部卿となるが、承安元年一〇月には太宰大弐に補任された。五味文彦氏が明らかにしたように、大宰府は関白分=基房の知行国で、摂関家との関係も維持していた。

 

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