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2020年5月 2日 (土)

仁多郡内の庄園公領

 仁多郡内で二〇町以上の田数を持つのは横田庄(五五町)と馬木郷(三五町二反大)のみである。ともに仁多系勝部宿祢が中心となって開発を進めた所領と思われるが、文永八年の地頭は六波羅探題南方の北条時輔と上野国御家人多胡左衛門尉であった。横田庄は一の谷合戦に参陣した横田兵衛尉跡を同族の三処氏がその継承を認められていたが、国御家人三処長綱が死亡し、東国御家人出身と思われる後家尼の時代に庄園領主石清水八幡宮との対立が強まる中、時輔に地頭職を寄進したものである。多胡氏は国衙領最大の所領である意宇郡出雲郷と楯縫郡平田保の地頭でもあったが、鰐淵寺への所領寄進状にみえるように守護佐々木氏との間に密接な関係を有していた。室町期の出雲守護京極氏は上野国多胡庄地頭職を支配していたが、それが鎌倉時代にまで遡る可能性もあろう。
 その他の所領も田数こそ少ないが、斐伊川沿いの要地を占めたり、広大な領域を持つものであった。前者の代表が田数四町四反の三沢郷である。その地頭である信濃国御家人飯島氏は戦国期には勢力を拡大し、出雲国南部の最有力国人に成長している。阿井郷を苗字の地とする国御家人阿井氏の場合、阿井郷そのものは幕府の管理下に置かれ頼朝法華堂別当僧都尊範が給分として与えられていた。一方、阿井左衛門尉子が地頭であった比知新宮については、阿井郷に隣接して所在した可能性があるが、その一方で仁多郡内の過半数の所領が属した一二番ではなく、一番に属しており、そこから大原郡内の所領である可能性もある。興国元年六月二五日には比知新宮半分地頭職が得勝寺播磨房歓善跡に与えられている。合戦で歓善が討死したことに対する恩賞であろう。同時に淀本庄一〇分一地頭職が菅三郎義綱跡に与えられているが、淀本庄も大原郡内の所領である。郡内北端の布施郷と布施社の地頭は大原郡大東庄内、仁和寺庄、近松庄地頭と同族である神保氏であった。
 治承・寿永の内乱で領主が没落した横田庄の継承が同族の三処氏に認められたように、鎌倉初期に東国御家人が地頭に補任された可能性が大きい所領はなかったと思われるが、承久京方により没収され、神保氏、飯島氏や幕府領とされた。

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