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2020年5月16日 (土)

大内弘直の討死2

 足利尊氏の弟直義が新田義貞等の討伐を呼びかけた軍勢催促状を出したのは建武二年一一月二日で、一二月一一日には箱根竹ノ下の戦いで義貞を破り、上洛を開始する。後醍醐天皇も一一月二九日には尊氏・直義兄弟追討のための軍勢催促状を出している(都野家文書)が、安芸国逸見氏や周防氏、吉川氏、さらには伊勢国御家人波多野氏は尊氏方である守護武田信武に着到状を提出している。前述の「京極家譜」によると京極導誉は謀事を以て同族で出雲・隠岐守護であった塩冶高貞を御方に寝返らせたとする。守護武田が尊氏方となったので後醍醐天皇は安芸国人熊谷氏や長門国人永富氏に安芸国への発向を命じている。
 石見国では建武三年正月一九日に東部迩摩郡久利郷一分地頭赤波氏が小笠原孫五郎入道の御廻文を受けて、西部美濃郡の高津・小山城に建武政権守護代を攻撃した際の軍忠状を提出している(證判者は『山口県史』でも不明)。現在では高津道性が石見守護であったことが判明している。吉川経明は一三日に益田弥二郎兼直(忠)とともに攻撃に参加し、高津氏降伏直後に軍忠状を提出しするとともに、兼直との間に相互御証判を交わしている。兼直は益田氏惣領兼世の嫡子であり、益田氏が高津氏や三隅氏と異なり幕府方を選択したことがわかる(ただし、花押を掲載した別冊が行方不明で直接確認できず、『中世益田・益田氏関係史料集』の推定が妥当と判断したもの)。
 建武二年二月一二日後醍醐天皇綸旨により、益田・小石見両郷、津毛疋見両別府が益田兼世に対して本領安堵されている。これは当知行安堵に対するもので、過去の権利が認められたものである。四ヶ所の所領はいずれも益田氏の手を離れていたのを取り戻した形である。宛所は切り取られているが、わずかに残る墨跡から「益田次郎」宛と推定できる。何故幕府滅亡から時間がかかったのかが問題となる。直近の長門国での旧北条氏与党の反乱鎮圧での貢献によるものであろう。ただし、益田兼世は一族を代表して本領を返されたが、その後、実際に支配しているのは益田本郷のみであり、他の三ヶ所は三隅氏が実効支配した可能性が大きい。本来益田氏惣領の所領であり、この点が不満となり、兼世は三隅氏と異なり幕府方を選択したと思われる。この時期の軍忠状に兼世がみえないのは、周布氏・福屋氏惣領と同様、畿内で活動していた可能性も残る。
 建武三年四月 日丸毛兼幸軍忠状によると、前年一二月半ばの時点では凶徒を退治したいが与力人がいないため、防州の大内長弘と合流した上で、折り返し高津・小山城攻撃に参加している。竹下ノ合戦前後から一気に情勢が変化し、石見国でも幕府方の軍勢催促に応じる国人が増えたのだろう。この時期周布氏惣領御神本兼宗は南朝方として摂津国西宮や播磨国赤松城での合戦に参加している。
 赤波氏は一旦、上洛した尊氏軍に合流して畿内で戦っていたが、尊氏軍が九州へ下ると石見国に戻っている。五月一〇日には幕府方の大将軍兼石見守護に起用された上野頼兼が中心となって黒谷城攻撃が行われている。一方、長野庄内俣賀村地頭内田熊若丸は五月二五日から六月五日にかけて、九州から再上洛してきた尊氏に従い、摂津国から近江国での合戦に参加している。
 

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