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2020年5月25日 (月)

正応元年一一月二一日関東下知状

 この文書(小野家文書)については何度か取り上げているが、従来の考えを棚上げにして、ゼロベースで考えてみたい。ただし、本来の文書の重要な部分が後世、この文書を入手した日御崎神社関係者によって加筆・修正されており、いくつかの留保をせざるをえない。
 修正された部分は、大社町史で示された①「小野」(前後の字より左に寄っている)、②「日置政吉」(空白の部分に加筆しており、二行に分かち書きしている他の部分より字が大きい)、③「神門郡薗・内〔林ヵ〕木〔外ヵ〕」(本来は一行であったものを無理に二行にしている)の部分、④「蘆渡」(前後の字より右に寄っている)である。最初にこの文書が加筆修正されたことを指摘した拙稿「中世前期日御崎社に関する基礎的考察」(山陰史談24,1990年)では④については言及していないが、県立図書館の影写本で再確認した。前地頭については判読が困難な部分があるが、「若槻下総七郎蔵人入道法師跡」と読むことができる。
 この文書では在京奉公の労として某「又次郎」に出雲国内の所領二ヶ所(内一ヶ所は某郷内門田三町・屋敷一所)が与えられている。同日付で小早川政景法師法名常心に備前国裳懸庄地頭職が与えられている(小早川家文書)。裳懸庄は山名左近蔵人景家法師、河辺次郎景通等跡とあり、分割して複数の人物に与えられていた。
 小早川氏は建治元年(一二七五)六条八幡宮造営役注文で在京人々の中に「小早川美作入道(茂平)跡」みえるが、政景は茂平の庶子で、安芸国都宇・竹原庄を譲られていた。山名(注文では安達氏の基盤であった上野国御家人としてみえる)、河辺氏(ただし、平頼綱方として恩賞を得ている一族のものもあった)は「景」をその名に付けており、安達泰盛与党として霜月騒動(一二八五)で没落し、その跡が政景に与えられたものであろう。
 小早川氏の例を参照すると、「小野」は「信濃」で、守護頼泰の嫡子貞清(信濃又次郎)ではないか。祖父泰清は六波羅評定衆として、六波羅探題、長井泰重に次ぐ位置にあった。貞清は父頼泰というよりも祖父泰清の後継者として正安二年(一三〇〇)閏七月五日関東御教書では「信濃次郎左衛門尉貞清」とみえ、大社造営奉行であった。与えられた所領は「林木庄」である。林木庄は地頭職が室町院に寄進されたため、正安二年頃のものである室町院領目録(八代恒治氏所蔵文書)の中にみえている。神門郡薗が後に日御崎社領となったため、林木庄の部分を神門郡薗・林木ないしは薗内外としたのだろう。鎌倉期の所領に郡名が付されることはほとんどなく、日御崎社の所在地は『出雲国風土記』の時代の出雲郡から一五世紀末までには神門郡に移り、大社領で林木庄と境を接する高浜郷・稲岡郷・武志郷も同様であったが、林木庄は出東郡内にとどまり神門郡となったことはない。
 元応二年(一三二〇)六月二五日関東下知状(小野家文書)では、文永八年の持田庄地頭土屋三郎左衛門尉忠時子の兄弟である平氏女に「前林木女」との注記がなされている。女子が文永八年の林木庄地頭であった深栖氏に嫁いでいたことと、林木庄地頭が深栖氏から若槻氏(建治注文には信濃国御家人として「若槻下総前司」がみえる)に交替していたことがわかる。観応二年(一三五一)八月に須和部(三刀屋)信恵入道が山名時氏方として石丸城に楯籠もり旗揚げした際に「若槻源蔵人一族」がみえ、「若槻孫四郎」が軍忠状の存知人となっている(諸家文書纂・三刀屋)。若槻氏を除く旗揚げの参加者は、仁多郡(仁田氏)・飯石郡(三刀屋氏)・出東郡(桑原氏)・神門郡(片山氏)であり、出雲国西部と南部の国人である。その後。文和四年には幕府方に転じた「若槻小法師丸」が本領を安堵されている。また、永和二年には若槻弥五郎清頼が訴えた出東郡漆治郷内津々志村半分に対する若槻七郎左衛門尉の押妨停止を守護京極高秀が認め、守護代隠岐入道に打ち渡すよう命じている(鰐淵寺文書)。
 以上、文書の加筆修正された部分が本来どうであったかについて検討した。日御崎社には安来庄地頭松田氏や大野庄関係文書が流入しているが、新たに守護関係文書を追加した。

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