koewokiku(HPへ)

« 出雲・隠岐守護再考 | トップページ | 出東郡の地頭 »

2020年5月12日 (火)

出東郡と神門郡

 「伊予佐々木家文書」が国会図書館に所蔵されており、同図書館デジタルで閲覧することができる。『戦国大名尼子氏の伝えた古文書-佐々木家文書』で画像と翻刻文が掲載されているが、なぜか(理由の説明なし、この点を含め改訂再発行すべきレベルのもの)、明徳三年(貼紙による)七月五日佐々木(京極)高詮宛状のみ写真が未掲載である。始めて与えたものなので文書名の「安堵状」は誤りである。出雲守護山名満幸ないしはその与党の所領が没収されて高詮に与えられたものを、弟六郎左衛門尉(高久)に分与したものである。
 問題は『京極家譜』でこの文書とその関連文書について以下のように述べていることである。
「明徳三〈壬申〉六月十一日高詮以出雲国出雲郡之内千巻北別所加高久、同年七月五日同国大原郡之内近松庄亦被譲之訖」
これに先立ち六月一一日には「出雲郡之内」千巻北別所(出雲市斐川町今在家の北半分)を分与している。後者も原文は「当国大原郡内近松庄」とあり、それが反映されている。「当国」とあるからには、この文書が出雲国に下向していた際に発給されたことを示している。前者も「当国」に続いて郡名が記されていたのは確実である。
 この三日前に京極高詮は「当国出東郡」千家・北島事を杵築大社に寄進しており(出雲大社文書)、前者の文言は次のようであったと思われる。
「当国出東郡内千巻北別所事、計申候、可有知行候也、恐々謹言」。以前の記事で出雲大社文書と伊予佐々木家文書の前後を勘違いして、明徳三年に出雲郡から出東郡への変更がなされたと記したが誤りである。そう書いたことも忘却していたが、たまたま検索して該当記事をみて、改めて確認したところである。
 出雲郡から出東郡への変更は院政期に、古代の出雲郡出雲郷に代わって。国衙に隣接する地域が出雲郷となったため、「出雲郡」「出雲郷」の両方の名称を変更したものである。古代の出雲郷は、中世では出西郷と大田郷(神立、北島、千家、求院)に再編成された。問題は、出東郡の範囲である。戦国期には出雲大社と大社領が、その時点の斐伊川の東岸・西岸に関係なく神門郡に組み入れられた。それまで北島の北側から北東への流路が東流路の中心であったのが、北島から北側への流路が中心となった。それには、西流路の縮小も伴ったと思われる。以上の事態が生じたのは一五世紀後半であろう。それに続く大きな流路変更が、十七世紀初頭の西流路の消滅であった。本来、斐伊川の本流であった西流路は、北島の対岸地点から朝山郷(中野・入南)、塩冶郷(荻原・栃島・高岡・荒木)、常松保と出雲大社領(武志・稲岡・高浜・杵築)の間を流れていたと思われる。
 院政期以前は、斐伊川東岸南部で小規模洪水が生じて遊水池の役割を果たしていたが、出雲大社領の成立とともに、洪水対策が進むと、東岸の中部・北部までの流水量が増加し、洪水が発生するようになった。また降雨量が多い場合は西岸でも洪水が発生した。それとは別に、北山山系での豪雨により、土石流が発生し、従来の河川が埋まる事態も起きた。西流路が埋まって消滅したのはそのためである。これにより西岸での洪水は、局地的なものを除けば、斐伊川本流沿いの地域が中心となった。
 話を戻すと、以前に両郡の境界を考えた際は、斐伊川西流路が北山山地に沿って流れていたとの想定から、武志郷、稲岡郷を神門郡内と考えたが、それを出東郡に修正する。一五世紀半ばまでは、斐伊川沿いの大社領で神門郡に属していたのは石塚のみで、その他はすべて出東郡であった。

 

« 出雲・隠岐守護再考 | トップページ | 出東郡の地頭 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 出雲・隠岐守護再考 | トップページ | 出東郡の地頭 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ