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2020年5月10日 (日)

源行真申詞と近江国佐々木庄2

 有仁は藤原経実の娘懿子を養女とし、後白河妃とした。懿子の母は後白河の母待賢門院の同母姉であったが、二条天皇を出産した一週間後に病没した(康治二年)。有仁領が二条天皇に継承された可能性はあるが、二条の血筋もその子六条で絶えている。また、有仁の祖母源基子の同母弟行宗は輔仁と有仁に仕え、その養女兵衛佐局が崇德天皇に仕えて重仁親王を産んだように、有仁と崇德院との間にも関係があった。行宗が康治二年一二月に没すると、兵衛佐局は藤原教長の養女となった。教長は公卿で崇德院のもとに参じた数少ない人物で、配流後、京都に戻ると、崇德院の除霊のための施設の設置を働きかけている。
 以上、源行真申詞をみたが、佐々木秀義と佐々木庄をつなぐ明証は確認できなかった。秀義の長子定綱が為義の娘を母として康治元年に誕生しており、この時点で秀義と為義との間に関係があったことは確認できる。佐々木哲氏は秀義は源有賢の子資長と同一人物だとするが、それが何故「秀義」と改名したのか、説明できない課題が山積しており、その説に同意する環境は整っていない。なお、藤原憲方以降の近江守は、天養元年正月に藤原敦光が補任されたが、その出家により半年ほどで交替している。久安三年三月一三日に「前近江守実清」がみえる(仙洞御移徙部類記)。閑院流藤原公信の子実清で、久安四年には右馬権頭に補任され、崇德院御給で正五位下に叙され、仁平四年には従四位下に進んでいる。同年八月に藤原頼長の子兼長が右大将に補任され、慶賀のため二一日に崇德院のもとを訪ねた際は別当右馬権頭実清が応対しており、崇德院庁の中心メンバーであった。保元の乱では崇德方となり、乱後処罰されている。
 実清の後任として近江守に補任された人物は不明だが、久安五年三月一八日に源憲俊が補任された。これもまもなく出家したため七月八日には源成雅に交替している。憲俊は太宰大弐からの遷任であろうが、忠実の家司であり、大宰府が忠実の知行国であった。その知行国が近江に移ったものである。成雅も忠実・頼長父子の家司で、忠実の知行国安芸国からの遷任であった。保元の乱では頼長方となり、処罰された中に「左近中将成雅」がみえる。仁平元年二月二日には院近臣である勧修寺流藤原朝隆が知行国主となり、その嫡子朝方が近江守に補任されている。以上のように、憲方と実清は待賢門院・崇德院の関係者であり、憲俊と成雅は忠実の関係者であった。

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