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2020年5月14日 (木)

杵築大社領伊志見郷

 建武三年(一三三六)に国造側が両家との裁判で作成した申状の草案の具書に安貞二年(一二二八)八月二五日関東下知状案があり、国造政孝が幕府から伊志見郷を与えられたものとされている。これに対して、従来の寄進は正殿遷宮完了時に国司から行われており、寄進の時期に疑問があるとして、宝治二年(一二四八)の正殿遷宮後になされたとの説を示した。そこでも、幕府が寄進できるのは地頭職であるとしたが、国司はどのような対応をしたのだろうか。
 文永一二年(一二七五)正月 日領家藤原兼嗣袖判下文によると、文永七年正月の本殿焼失後、神主出雲実政とその父実高が造営を行ったが、当初の方針が変更され国造義孝が所持する造営日記文書に基づくべきことになった。ところが実高・実政父子からの要請に国造が応じず、造営は一向に進まなかった。そのため、領家は国造義孝を神主に補任して造営事業を前進させることにした。これに対して、前任の出雲実高からの巻き返しがあったが、一年後の建治二年(一二七六)二月 日領家兼嗣下文により、方針転換が再確認された。その際に前例として、嘉禄の造営が進まなかった際に、義孝の親父である国造政孝が重代造営日記文書を所持しており、それを他人が帯することは出来ないことが認められた上で、政孝が神主に補任されたことが確認された。嘉禄の仮殿造営は嘉禄二年(一二二六)七月に国造政孝が神主に補任されて以降に軌道に乗っている。同時に権検校に再任されたのは出雲真高であった。前年の五月にも真高は領家下文により元の如く権検校に補任されている。これに対して、同年七月一九日領家下文には、国造政孝が権検校孝元の悪しき例を根拠に、真高の権検校補任に異論を述べている。すでにこの時点で政孝が神主に補任されていたかどうかは、この文書からは不明である。嘉禄元年四月二一日には本家承明門院が政孝を神主に補任する意思を表明しているが、あくまでも決定権は領家にあった。神主、権検校とも複数の立候補者から請文提出され、その中から領家が決定した。
 建保七年(一二一九)三月一一日に国造孝綱が国造職と大社惣検校職を舎弟政孝に去り与えているが、惣検校職は領家が補任権を持っており、この文書は後世作成された偽文書である。国造職にしても家譜では政孝が継承したのは嘉禄元年である。この年に孝綱が死亡し、その後継者をめぐる対立はあったであろうが、弟政孝が孝綱の子を抑えて国造となった。ただし、国造と神主は別である。領家が政孝を神主に補任したのは嘉禄二年七月が最初であったとみるべきである。貞応三年(一二二四)六月の時点で権検校真高を圧迫していた神主は政孝ではない。国造孝綱の可能性もあるが、国造以外であった可能性もある。
 嘉禄造営とは嘉禄三年の仮殿遷宮に至る造営事業のことであるが、それに続いて開始された正殿造営もまたスムーズには進まず、軌道にのったのは嘉禎二年(一二三六)以降であった。その前年の文暦二年九月 日領家藤原下文により出雲真高に代わって国造義孝が神主に補任されてからであった。それは義孝が父政孝から受け継いだ造営日記文書を所持していたからであった。義孝が国造となったのは寛喜三年(一二三一)で、父政孝の死によるものであった。ただし、孝綱の子等には不満が残った。
 話を戻すと、安貞二年の寄進が事実としても、幕府が寄進できたのは地頭職のみで、それに先だって国司による伊志見郷寄進が行われたはずである。建久元年の遷宮時点との違いは、承久の乱により、ほとんどの公領にも地頭(その多くは東国御家人)が補任されたいたことである。また、安貞二年の神主が出雲政孝でなかったことは確実である。安貞二年の幕府による伊志見郷地頭職寄進、それに先立つ国司による伊志見郷寄進の史料が残されなかったのは、それにより国造政孝・義孝にとって都合の悪い事実が明らかになるのを防ぐためであった。今回、北島家文書から新たに発見された文書には鎌倉幕府関係のものが含まれているようであるが、その公開を待ちたい。以上、伊志見郷寄進の問題から、政孝・義孝父子が国造並に神主に初めて補任された時期を明確にした。

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