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2020年5月16日 (土)

日置政高軍忠状について

 石見の方から南北朝動乱開始時の事について質問を受けて、『南北朝遺文』第一巻の関係文書を見ているが、その前に標題の点について確認する。一九九〇年に「中世日御崎社に関する基礎的考察」を発表し(山陰史談24)、日置政高関係文書の大半は後世に作成されたものであることを明らかにした。文書としての形式、同時期の他氏への発給文書との違い、證判者の花押の問題等、すべて明確な根拠を示している。問題は、本来存在した文書に基づいて後世作成された文書が存在する可能性である。
 それが建武三年正月 日日置政高軍忠状で、当該論文でも元弘三年四月 日政高軍忠状とともに、文書の真偽を保留している。ただし、元弘三年軍忠状の裏に記された花押は、一般的に説かれている千種忠顕のものとは異なっている。政高は日御崎神社検校の兄弟と思われる人物で、その所領大野庄内加治屋村は文明年間には日御崎神社領としてみえている。軍忠状の内容は具体的で、そこに記された場所や本人以外の人名は、合戦に関する他の史料と矛盾していない。政高は建武政権下で美作守護であった佐々木(富田)秀貞とともに、美作国から発行し、建武三年正月一一日に京都に入り、関東から上洛してきた尊氏軍と合流して建武政権方と戦っている。
 建武三年軍忠状の袖に證判として押されたされた花押は高師直のものと酷似しているが、この時期、高兄弟で軍忠状に證判を加えているのは師直ではなく師泰である(九州から再入京後の七月の軍忠状二通に師直が證判)。何より、軍忠状の證判はその奥に押されるのが一般的である。例外としてみえるのは、伊予国忽那氏が建武政権方に提出した建武二年一二月二五日と建武三年二月三日付軍忠状で、「洞院實世ヵ」と注記のある證判は袖に押されている。元弘三年の軍忠状のように裏に花押が押される事も極めて希なことである。元弘三年五月 日鰐淵寺住僧讃岐房頼源軍忠状の袖にも千種忠顕の花押が押されているが、これも南朝関係・非武家である。当時の作法としては文書の奥に證判のスベースを空けた上で軍忠状を作成した。
 以上の点から、二通の政高軍忠状が後に作成されたものであることは明白である。元の軍忠状を提出者の部分を書き換えて作成したが、その際に、奥ではなく袖に、そして高師泰ではなく、観応の擾乱により著名な師直の花押を押してしまったのだろう。参考にしたのは貞和三年三月一九日室町幕府御教書(出雲大社文書)で、武蔵守師直が伝達している。政高の軍忠は存在した可能性はあるが、少なくとも、文書作成時にはその軍忠状は失われていた。政高関係文書はすべて後世に作成されたものである。

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