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2020年5月 1日 (金)

大原郡の地頭

 この点についてはかつて述べたことがあったが、現時点の最新版にアップデートしたい。
 大原郡の文永八年の地頭で、国御家人であるのは佐世郷地頭湯左衛門(清綱)四郎のみである。以前は、大東庄内遠(縁)所を苗字とする縁所後五郎も国御家人としていたが、土屋垣屋氏系図により、土屋忠光の子光直流であることが確認できた。土屋氏は鎌倉初期に、大原郡では福田庄とともに、大東庄内遠所、養賀、飯田(含む阿用)の地頭職を得ていたことは確実である。ただし、土屋六郎左衛門入道は四郎左衛門入道の誤りであろう(土屋垣屋氏系図)。残る大東庄南・北の地頭飯沼氏(信濃)と千葉神保氏(1981年の時点では上野国としていたが下総国臼井庄神保郷を苗字の地とする。本来は上総氏の一族)については承久新恩の可能性が高い。承久の乱では神保太郎・神保与一・神保与三が勲功を上げ、飯沼三郎とその子息一人が討死している。
 三代庄地頭本間対馬二郎左衛門尉は、『吾妻鏡』文応二年一月二日の垸飯で二御馬を勤めた武蔵五郎時忠(大仏朝直子)の補佐役「対馬次郎兵衛尉」、弘長三年一月八日と一二日に御的当の射手を勤めた本間対馬次郎兵衛尉、対馬次郎兵衛尉忠泰と同一人物であろう(小泉宜右氏「御家人本間氏について」、小川信先生古希記念論集『日本中世政治社会の研究』1991年所収)。忠泰は本間対馬守忠家の孫で、父忠貞は北条時房が承久の乱の恩賞として得た伊勢国(同時に時房が守護に補任される)内16ヵ所の所領の一つを、時房の申請により与えられている。本間氏は乱以前から時房の家人として活動していた。三代庄の庄官三代氏は一の谷合戦に平氏方として動員されており、鎌倉初期に東国御家人が三代庄地頭に補任された可能性が大きいが、それが本間氏であったかは史料を欠き保留する。猶、意宇郡揖屋社地頭安東宮内左衛門尉は、文応二年正月一日の垸飯で三御馬を勤めた越後四郎顕時(金沢実時の子)の補佐を勤めた安東宮内左衛門尉、弘長三年一月三日の垸飯で一御馬を勤めた相模七郎宗頼(時頼の子)の補佐である安東宮内左衛門尉景光と同一人物であろう。景光は北条氏の近臣であった。(垸飯については永井普氏「鎌倉幕府垸飯の成立と展開」、小川論集1991がある)
 『吾妻鏡』には文治五年七月二五日以降、本間義(能)忠の活動が確認できる。系図によると義忠は同年の奥州藤原氏攻撃で戦功をあげ、将軍実朝のもとで播磨守護に補任されたとするが、守護については確実な史料を欠いている。能忠の子能久には佐渡守護との記載があるが、実際には守護北条氏のもとでの守護代であった。なお、以前の記事「広田氏について」で本間氏を武蔵国御家人としたが、相模国に訂正する。
 木次上村地頭大井新左衛門尉(重泰)と広田庄地頭品川弥三郎(胤信)は同族(紀姓)で武蔵国御家人である。大井氏は実春が因幡守大江広元のもとで目代を務めている。一の谷合戦に木次氏が参加しており、両所領は鎌倉初期に大井氏と品川氏が地頭に補任された可能性が大きい。承久新恩であることが確認できるのは淀本庄地頭中沢氏(信濃)、日伊郷・福武村地頭伊北氏(当初は大西庄ヵ)、久野郷地頭中郡氏である。その他については不明である。
 大原郡内の所領の中で、広田庄と福武村についてはその所在を示す明証がない。字「広田」が木次町木次に残っており、斐伊川から分岐した久野川の下流域北岸が木次上村で、南岸が広田庄であろう。南北朝期に登場する「日登郷」は南岸にあり、本来は広田庄から独立したものであろうか。福武村は同じく伊北氏領となった日伊郷(雲南市木次町里方と山方)に隣接する場所であろう。

 

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